傅僉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 傅僉の意味・解説 

傅僉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:37 UTC 版)

傅僉
蜀漢
関中都督
出生 生年不明
荊州義陽郡
死去 景耀6年(263年
拼音 Fú Qiān
主君 劉禅
テンプレートを表示

傅 僉(ふ せん)は、中国三国時代蜀漢の武将。荊州義陽郡の人。父は傅彤。子は傅著・傅募。

経歴

父の傅彤も蜀漢に仕えたが、章武2年(222年)に夷陵の戦いで戦死した。傅僉はその後に左中郎将、次いで関中都督となった。

景耀6年(263年)、の侵攻を受けた時に傅僉は、蔣舒と共に陽安関を守っていた。守備の命令と傅僉の諫止にもかかわらず蔣舒は「出撃して敵に勝つことこそ手柄だ。それぞれ自分の思いどおりにやろう」と主張し、軍勢を率いて出撃。しかし実際には戦意はなく、魏の先鋒胡烈に降伏してしまう。その虚に乗じた胡烈の襲撃を受けた傅僉は、奮戦するもむなしく戦死を遂げた[1]

後年、西晋皇帝司馬炎は、傅彤・傅僉父子の忠義を称える詔を出した。子の傅著・傅募は官奴にされたが、後に赦免され庶人となった。

三国志演義

小説『三国志演義』では剛腹の荒武者で、鉄扇と薙刀を愛用している。姜維に気に入られ北伐に従い、魏との戦いで活躍。王真を生け捕り、李鵬を討ち取り、鄧艾からも勝利を収めた。

魏軍が大挙して蜀に攻め込んできた際、部下の蔣舒と共に陽平関を守る。鍾会の軍が迫ると蔣舒は守りを固めるべきと進言するが、傅僉はこれを聞き入れずに出撃。このため蔣舒は鍾会に投降して、陽平関を明け渡すこととなる。傅僉は怒って奮戦するが力及ばず、最後は「蜀の臣として生まれたからには、死して蜀の鬼とならん」と言い、自刎して果てた。

出典

脚注

  1. ^ 『三国志』蜀書 姜維伝注『漢晋春秋


このページでは「ウィキペディア」から傅僉を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から傅僉を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から傅僉を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「傅僉」の関連用語

傅僉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



傅僉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの傅僉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS