ビーチ・ニューマチック・トランジットとは? わかりやすく解説

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ビーチ・ニューマチック・トランジット

(Beach Pneumatic Transit から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/18 15:04 UTC 版)

ビーチ・ニューマチック・トランジット(英:Beach Pneumatic Transit)は、1860年代に発明家アルフレッド・E・ビーチが考案したニューヨークの地下交通システムである。政治的圧力や経済恐慌が障壁となりデモンストレーション運転のみで終わったが、ニューヨークで最初の「地下鉄」となった。

起案から発表まで

発明家・特許代理人のアルフレッド・イーリー・ビーチ(Alfred Ely Beach,1826 - 1896)は、23歳の頃、ニューヨークの交通渋滞を解消する手段として、地下道を掘って馬車を走らせるアイデアを思い描いた。それから15年を経て、1864年に南ロンドンのクリスタルパレス公園で実験が行われた空気圧鉄道[1]、ロンドンで実用化された郵便気送管からヒントを得て「ニューマチック・トランジット」を考案した。ニューマチックとはチューブ(トンネル)内を加圧または減圧し、その気圧差で物体を移動させるシステムである。

アルフレッド・E・ビーチ(44歳)

ビーチは40歳で「ビーチ・ニューマチック・トランジット」を起業し、1867年のニューヨーク発明家協会の展示会で実演してみせた。会場には直径2.4 m、長さ30 mの合板製のチューブが設置され、実際に空気圧を利用する乗り物が走行した[2]。100馬力蒸気エンジンブロアを回すと10人乗りの乗り物が静かに動き出し、ブロアを反転させると元の場所へと戻った。6週間の開催期間中に延べ7万5千人以上が乗車するという盛況ぶりであった。

展示会の様子 1867年

1860年代のニューヨークの道路は歩行者と馬車と蒸気自動車がひしめき合っていた。市内に15万頭いる馬は1頭あたり毎日10 kgの尿を路上に垂れ流し[3]、乾燥すると粉塵となって街を覆う、いわゆる「馬糞風」と呼ばれる劣悪な環境を生み出した[4]。ビーチはこの問題の解決策として地下輸送システムに着目し、市当局に資金援助を申し出た。

しかし、民主党のウィリアム・トウィード上院議員(William M.Tweed,1823 - 1878)は新しい交通機関の参入を許さなかった。ニューヨーク政界の”ボス”として知られるトウィードにとって、道路事情よりも既存の公共交通機関との利害関係(つまり賄賂)のほうが重要なのであった。

着工

そこでビーチは、ブロードウェイの1ブロック区間に『実験用の郵便気送管工事』を申請して、こっそり人が乗れるサイズの気送管を造る計画を立てた。明らかな違法工事だが、完成した実物を大衆が見てしまえば市当局も認めざるを得ないだろうという策略である。

最初の1年はトンネルの掘削機械の開発に費やされた。次にウォーレンst.の角にあるデブリン衣料品店の地下1階と2階を5年間4千ドルで契約すると、1869年に密かにトンネル工事を開始した。

規模は直径2.7m、深さ6m。「ビーチ・トンネリングシールド」と命名した円筒形の掘削機械は、ゆっくりと回転して土を削りながら、周囲に取り付けられた18個の油圧シリンダーが煉瓦の壁を構築する。作業員は筒の中にいるので安全が確保された。

方向と深さは途中途中でトンネルの天井に連結式の鉄の棒を打ち込み、先端が道路上に飛び出すのを目視で確認した。1日に約2.5m掘り進み、夜中になると土を運び出した[5]。深夜の現場管理は21歳になる息子のフレデリックに任された。こうしてブロードウェイのウォーレンst.からマレーst.までの1ブロック(約90m)の区間に、アメリカ初となるシールドトンネルを築いた。

ビーチ・トンネリングシールド
システムの概略図

市職員が視察に来たこともあったがビーチは毅然とした態度で追い払った。だが実際は不安でたまらなく、トンネルが崩れて道路が陥没する夢を何度も見たという。トンネル部分は58日間で完成した[6]

ボイラー室および機械室にはインディアナ州から取り寄せた蒸気エンジンルーツ式ブロアを設置した。本来は鉱山の坑道の換気に使われるもので、作動すると地上の通気口の近くに落ちているゴミを吸い寄せるほどの強力な風量を発生した[6]

ビーチは多くの人々が持つ地下室の陰湿なイメージを払拭しようと、待合室を明るいシャンデリアで照らし、グランドピアノや柱時計、水槽、絵画、花などを飾って高級感と居心地の良さを兼ね備える空間に仕上げた。この装飾だけで7万ドル(現在の168万ドル)の費用を投じた。

一般公開

1870年2月26日、市や州の有力者や著名な技術者、記者たちを招待して「ビーチ・ニューマチック・トランジット」を披露した。翌日からは入場料25セント(現在の6ドル)で一般公開され、美しく装飾された地下空間に人々は感嘆の声を上げた。だがさらに驚いたのは、円形のトンネルとそこにぴったりと納まる円筒形の客車であった。

地下駅と客車

22人乗りの客車がたった90mの距離を時速10〜15キロで行ったり来たりするだけなのだが、蒸気エンジンしか知らない時代、大きな音も煙も出さずにコトコトと車輪の音だけで動くのは驚異的な体験であった。新しいアトラクションを体験しようと毎日多くの見物客が群がり、警官が交通整理に駆り出されることもあった[7]

乗車を待つ人々
車内の様子

最初の1年で40万人が来場したが、営利目的でないことを証明するため収益は南北戦争孤児の慈善団体に寄付された。長い待ち時間のおかげでデブリン衣料品店の売れ行きも伸びた。

成功の手応えを感じたビーチは、セントラルパークまでの8kmを延長しようと政治家や投資家を相手にロビー活動を行なった。

政界の圧力

ビーチの巧妙な手口に憤ったトウィード上院議員は、鉄道会社と結託して高架鉄道の建設を推進し始めた。

だが高架鉄道の予算は5000万ドル、対するビーチの地下交通システムは500万ドルで実現可能とされ、さらに工事中の渋滞や完成後の街の景観などを考慮しても圧倒的にビーチ側が優勢だった[6]

市議会はビーチ案を承認し、ジョン・ホフマン州知事(John T. Hoffman)に提出した。ところがホフマン州知事は、不動産所有者らが主張する「トンネル工事による地盤への悪影響」を理由にトウィードの高架鉄道計画を一方的に認可した[6]。ホフマンはトウィードの支援で州知事に任命された人物であり、マンハッタンの地主らも政界と深く関わっていたのである[8]

だがトウィードの勢力もここまでだった。彼らの闇帳簿が新聞に暴露されたのをきっかけに会計監査が実施され、トウィードは汚職容疑で逮捕、ホフマン州知事も解任された[9]。新しく選ばれたジョン・ディックス州知事はビーチの業績を高く評価し、1873年に州による正式な承認が与えられた[8]

トウィードには懲役12年の実刑判決が下され、1887年に64歳で獄中死した[10]

プロジェクトの終局

ようやく法案が通ったものの、ビーチは既に自己資金35万ドル(現在の840万ドル)を投入しており、深刻な資金不足に陥った。そのため公開から3年後の1873年4月にデモンストレーション走行を終了する。折悪しくこの年は1873年恐慌が発生し、投資家たちは次々に支援を停止。州知事も承認を撤回し[6]、プロジェクトは完全に終息した。

3年後、ニューヨーク市との当初の約束を果たすべく、ビーチは全長300mの実験用の郵便気送管を造った。「ビーチ自動郵便集配システム」と呼ばれるこの装置は、街灯に設けられた郵便ポストに郵便物を投下し集荷する仕組みであった。小規模だがアメリカ初の郵便気送管であり、1890年代にニューヨークで実用化される郵便気送管の礎となった。

地下駅とトンネルはワインセラー、射撃場、倉庫などの用途に貸し出されたが、1898年の火災で建物が焼失した際に閉鎖した。

街灯の郵便ポスト

アルフレッド・ビーチのその後

プロジェクトの失敗でビーチは活力を失い、すっかり別人のようになったと語られている。もともと敬虔な信仰心の持ち主ではあったが以前にも増して温厚になり、刑務所で死亡したトウィードを恨むこともなかった。独学でスペイン語を学習しサイエンティフィック・アメリカンの中南米版を出版するなどして経済的には立ち直った[6]

1896年1月1日に肺炎で69歳で亡くなった。ニューヨークタイムズ紙が小さな死亡記事を載せただけでほとんど注目されなかった[6]。それから10年も経たない1904年に、ニューヨーク市地下鉄が開業する。

地下駅の発見

ニューマチック・トランジットの閉鎖から40年後の1912年、市庁舎前で地下鉄IRTレキシントンAve.線の工事をしていた作業員が地下駅を発見した。一部の調度品は腐食していたが、トンネルや木製の客車、待合室のグランドピアノなどがそのまま残されていた。トンネルの端に埋まっていた掘削機はイエール大学が引き取ったがその後の所在は不明である[11]

シティホール駅の工事区画内と重なっていたため保存はされなかったが、施設の一部は今も存在すると考えられている。現在、BMTブロードウェイ線シティホール駅の壁に『ニューヨーク地下鉄の父』とビーチを称える小さな銘板が設置されている[12]

脚注

出典

  1. ^ Frederic Delaitre's Lost Subways / Crystal Palace Atmospheric Railway”. fdelaitre.org. 2024年12月13日閲覧。
  2. ^ Most, Doug. “Scientific American’s Owner Built the First New York Subway [Excerpt]” (英語). Scientific American. 2024年12月20日閲覧。
  3. ^ Standage, Tom (2021年8月3日). “The lost history of the electric car – and what it tells us about the future of transport” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/technology/2021/aug/03/lost-history-electric-car-future-transport 2025年2月3日閲覧。 
  4. ^ Courage, Katherine Harmon (2020年9月1日). “The First Subway in New York City Was a Cylindrical Car Pushed by Air” (英語). Scientific American. 2024年12月29日閲覧。
  5. ^ The Secret Pneumatic Subway: Beach vs Tweed” (英語). StMU Research Scholars. 2024年12月12日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月12日閲覧。
  7. ^ The New York Historical” (英語). www.nyhistory.org. 2024年12月20日閲覧。
  8. ^ a b Nevius, James (2018年6月27日). “The elevated era” (英語). Curbed NY. 2024年12月18日閲覧。
  9. ^ Notable Resident: William Magear "Boss" Tweed” (英語). Green-Wood. 2024年12月31日閲覧。
  10. ^ William Boss Tweed, political machines, U.S. history, corruption, Gilded Age, political power, Tammany Hall, urban politics” (英語). Bill of Rights Institute. 2024年12月10日閲覧。
  11. ^ Blakey02 (2023年9月13日). “Beach Pneumatic Transit “New” Photos”. r/nycrail. 2024年12月20日閲覧。
  12. ^ Klaatu Article”. www.klaatu.org. 2024年12月18日閲覧。

関連項目




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