578年の呂梁の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 578年の呂梁の戦いの意味・解説 

578年の呂梁の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/21 04:00 UTC 版)

呂梁の戦い」の記事における「578年の呂梁の戦い」の解説

陳の呉明徹北周徐州城を包囲し清水を引きこんで水攻めにした。呉明徹戦艦城下ならべて攻略はかった578年2月北周行軍総管王軌は、軍を率いて徐州救援にやってきた。王軌清水淮水合流地点にひそみ、川底車輪を貫く鉄鎖横渡しにして、船の退路遮断した。陳軍が王軌軍の来襲察知すると、陳の譙州刺史蕭摩訶下流王軌軍の工作終わらないうちに襲撃するよう呉明徹進言したが、聞き入れられなかった。王軌の周軍が迫ると、陳の諸将撤退進言した。呉明徹撤退許可し蕭摩訶夜間のうちに騎兵率いて先に進発した。翌日呉明徹歩兵戦艦収容すると、堰を破壊し水流乗って撤退はじめた。陳軍の戦艦淮水入ろうとしたが、清水淮水合流地点では川幅広く水勢衰えて戦艦は周軍の設置した川底車輪ひっかかって動けなくなった王軌はこれを包囲して呉明徹および陳の将兵3万人あまりを捕らえた蕭摩訶率い2000騎のみが撤退することができた。王軌功績により北周柱国徐州総管となった呉明徹長安連行されて、懐徳公封じられたが、憂憤のうちに死去した

※この「578年の呂梁の戦い」の解説は、「呂梁の戦い」の解説の一部です。
「578年の呂梁の戦い」を含む「呂梁の戦い」の記事については、「呂梁の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「578年の呂梁の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「578年の呂梁の戦い」の関連用語

578年の呂梁の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



578年の呂梁の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの呂梁の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS