3か月の皇后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (ドイツ皇后)」の記事における「3か月の皇后」の解説
1888年3月9日に義父のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御。夫フリッツがドイツ皇帝フリードリヒ3世として即位、ヴィッキーがドイツ皇后になった。即位前から既に夫フリードリヒ3世は喉頭癌にかかり、余命幾ばくもないほど病に侵されており、皇帝即位の戴冠式を行わぬまま皇帝となった。 公務に取り組めないほど病状が進行していたため、皇后のヴィッキーが皇太子の摂政となり、皇太子ヴィルヘルムと共に皇帝代行で公務に取り掛かった。ドイツ宰相ビスマルクを嫌っていたヴィッキーと皇太子ヴィルヘルムは彼を無視し、自ら政務を執っていた。ヴィッキーは病に倒れているフリードリヒ3世を看病しながら皇后の務めであるドイツ領邦の王公妃、プロイセン貴族の夫人たちの謁見も休まず行った。摂政と皇后の公務の両立は大変なものだったが、疲れを貴族たちに一切見せず精力的に公務に励んだ。 義理の息子の病状を心配したヴィッキーの母ヴィクトリア女王はフリードリヒ3世の元にイギリスの医師団を差し向けた。しかし、それが気に食わなかった宮廷医師団との小競り合いが続き、フリードリヒ3世はまともな治療を受けられなかった。また、ヴィッキーを困らせたのは医師団の診察の結果が食い違っていることだった。ヴィッキーは古くからドイツ帝室に仕えている宮廷医師団の結果を尊重するために母ヴィクトリア女王の差し向けたイギリスの医師団をイギリスに帰そうと思っていたが、母ヴィクトリア女王の面目のためにイギリスに医師団を帰すことができなかった。 医師団の小競り合いが続くうちにフリードリヒ3世の病状も進み、まともな診察が受けられぬまま6月15日にフリードリヒ3世は崩御した。 1888年はドイツ皇帝家のホーエンツォレルン家にとっては災難な年だった。3月9日にヴィルヘルム1世が崩御、フリードリヒ3世が6月15日に崩御とドイツ皇帝が相次いで崩御。一年のうちに二回皇帝が代わったことから「三皇帝の年」と言われる。そのためヴィッキーは3ヶ月間しか皇后の座に就くことができなかった。
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