1264年の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:17 UTC 版)
「モンゴルの樺太侵攻」の記事における「1264年の遠征」の解説
アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。 ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、北九州への侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。
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