駒井政直とは? わかりやすく解説

駒井政直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/15 18:15 UTC 版)

 
駒井政直
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 天文11年(1542年
死没 文禄4年6月8日1595年7月14日))
別名 昌直、孫三郎、右京亮、右京進
戒名 全可
主君 武田信玄武田勝頼榊原康政
氏族 甲斐源氏武田氏駒井氏
父母 父:駒井高白斎
駒井親直、駒井親行、娘(跡部昌秀室)
テンプレートを表示

駒井 政直(こまい まさなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。父は駒井高白斎。名は昌直とも。戒名・全可。通称、孫三郎、右京亮、右京進。子に親直、親行。

武田信玄勝頼の2代に仕える。譜代家老衆の侍大将として、55騎と在郷の近習50騎の合わせて105騎を率いた。永禄6年5月晦日には高野山成慶院で父・高白斎の供養を行っている。高白斎と同様に信濃諏訪郡との取次を務めている。『甲陽軍鑑』によれば、永禄13年(1570年)、駿河国深沢城静岡県御殿場市)の城代に任命され、駒井宮内大輔・小山田大学助らと在城する。

天正10年(1582年)3月の織田信長甲州征伐によって武田氏が滅亡した後は、徳川家康に降り榊原康政に属して武田遺臣の代表格となり、家康に対する忠誠を誓った「天正壬午起請文」の提出にも携わっている。徳川家康の関東移封に伴い甲斐を離れ、天正19年(1591年)7月、上野国那波郡(現在の伊勢崎市)に1500石を領す。[1]

文禄4年(1595年)6月8日、死去。享年54。墓所は政直開祖と伝わる那波郡連取村(群馬県伊勢崎市)の竹芳寺。

嫡子に親直がおり、次男の親行も政周という子がおり、子孫は旗本として存続している。娘は跡部昌秀室となっている。

脚注

  1. ^ [1]駒井氏陣屋




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「駒井政直」の関連用語

駒井政直のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



駒井政直のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの駒井政直 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS