顕恭皇后とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 顕恭皇后の意味・解説 

顕恭皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 10:14 UTC 版)

王皇后
北宋の皇后
在位 元符3年2月10日[1] - 大観2年9月26日
1100年3月22日 - 1108年11月1日

別称 静和皇后、顕恭皇后
出生 元豊7年(1084年
開封府
死去 大観2年9月26日
1108年11月1日
開封府
埋葬 永裕陵
配偶者 徽宗
子女 欽宗
趙金奴(栄徳帝姫)
父親 王藻
テンプレートを表示

顕恭皇后(けんきょうこうごう)は、北宋徽宗皇后欽宗の母。姓は王氏は初め静和であった。

生涯

開封徳州刺史王藻の娘として生まれた。元符2年(1099年)6月、端王趙佶(後の徽宗)に嫁ぎ、順国夫人に封ぜられた。端王が皇帝に即位後、皇后に立てられた。趙桓(欽宗)と趙金奴(栄徳帝姫)を産んだ。

徽宗は王皇后をあまり寵愛せず、鄭貴妃(後に皇后となった)と大王貴妃を寵愛し、皇后は彼女らと等しく扱われた。大観2年(1108年)9月、崩じた。徽宗の父の神宗の永裕陵に従葬された。

脚注

  1. ^ 『宋史』巻19, 徽宗紀一 元符三年二月丁未条による。

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「顕恭皇后」の関連用語

顕恭皇后のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



顕恭皇后のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの顕恭皇后 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS