憲節皇后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 10:00 UTC 版)
憲節皇后(けんせつこうごう)は、南宋の高宗の最初の正室。皇后に遙封(不在のまま冊立すること)された。姓は邢、諱は秉懿(ひょうい)。
- ^ 『宋史』巻24, 高宗紀一 建炎元年五月癸巳条による。
- ^ 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 憲節邢皇后の項より。
- ^ 同時に、柔福帝姫や洵徳帝姫、鄆王趙楷の妃の朱鳳英らも流産している。『靖康稗史箋證』「二十九日、邢朱二妃、二帝姫以墜馬損胎、不能騎行」
- ^ 呂好問の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。
- ^ 『朝野遺記』
- ^ 『鄧粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。
- ^ 北宋の武義大夫。靖康2年(金の天会5年、南宋の建炎元年、1127年)、連行の途中に逃亡し、7月に商丘(当時の南宋の都城)に到着した。
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