阿諛追従の徒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:48 UTC 版)
始建国3年(11年)、王莽の太子に儒学を講義するための九祭酒が設置されると、崔発は、その中の六経祭酒の一つにあたる楽経祭酒に任命されている。天鳳3年(16年)10月、王路の朱雀門が一日中音響を発するという事件があると、崔発らはこれを虞の故事に準えて、四方の賢者を招聘すべきとの予兆であると解釈した。 地皇元年(20年)秋、王莽が長安の南に巨大な祖廟を建築しようとした。この時、崔発と張邯は「徳の盛んな方は儀礼が豊富になるものであり、この建築はかなりの規模になります。海内(全国)にこのことを知らしめ、万世の後もこの祖廟を越える建築が現れないようにするべきです」と王莽に進言した。しかし、この祖廟の建築は、国内の官民に徴発や寄付を強要し、疲弊させることになってしまう。 地皇2年(21年)、かつて左将軍を務めていた公孫禄が王莽に対して、国師劉歆らを弾劾したが、崔発もその対象であり、「阿諛追従を行い、下情を上層に伝えようとしなかった」と非難している。しかし王莽は怒り、公孫禄を追い払った。
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