関西勤務時代
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1893年(明治26年)10月、大島は札幌農学校を辞職した。直後の11月10日、札幌農学校は文部省直轄学校となった(勅令第208号)。『クラーク先生と その弟子たち』(1993年版) 301-303頁(大島智夫稿)は、札幌農学校は文部省直轄学校となる条件として文部大臣から教授定員削減を求められており、佐藤昌介校長が大島に暗に教授辞職を迫ったのはそのため、と結論付けている。 大島は京都の同志社普通学校の教授(数学担当)に転じた。3年後の1896年7月、同志社を辞職し私立奈良中学校の校長となった。このころ、同志社中学から放校処分を受けた金山平三を引き受けて、奈良中学に入学させている。私立奈良中学校は聖公会系のミッションスクールで、現在の奈良県庁付近にあったが、1901年3月に廃校となった。
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