関口林五郎とは? わかりやすく解説

関口林五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 09:41 UTC 版)

関口林五郞

関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年明治32年〉3月5日 - 1973年昭和48年〉6月26日)は、日本医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位[1]藍綬褒章[2]紺綬褒章[2]勲三等瑞宝章[1]受章。

生涯

1899年明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる[3]。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住[1][3]。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年大正12年)卒業[1][3]慶應義塾大学医学部整形外科教室で前田友助教授の指導を受ける[3]

1929年昭和4年)、前橋で関口整形外科病院を開業[1][3]1951年(昭和26年)群馬県医師会会長[3]1956年(昭和31年)全日本柔道整復師会顧問に就任[3]。1956年から1958年(昭和33年)まで群馬県教育委員[4]

1962年(昭和37年)講道館八段に昇段[3]。同年から群馬県公安委員長[2][3]1967年(昭和42年)群馬県体育協会会長[2][3]。ほかにも群馬県レクリエーション協会会長、群馬県立前橋高等学校同窓会長など諸団体の代表を務めた[2][1]

1973年(昭和48年)6月26日死去[1][5]。葬儀は日本医師会会長・武見太郎を委員長として群馬県民会館で営まれ、戒名は「最紘院殿医徳林照大居士」[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『群馬県百科事典』上毛新聞社、1979年2月28日、535頁。doi:10.11501/12160601 (要登録)
  2. ^ a b c d e 群馬公論社 編『群馬の人物』群馬公論社、1967年12月15日、131頁。doi:10.11501/2984277 (要登録)
  3. ^ a b c d e f g h i j 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、291頁。doi:10.11501/12189010 (要登録)
  4. ^ 戦後における群馬県教育史研究編さん委員会 編『群馬県教育史戦後編』 下巻、群馬県教育委員会、1967年3月30日、958頁。doi:10.11501/3045383 (要登録)
  5. ^ a b 萩原進 編『群馬の墓めぐり』《郡部篇》みやま文庫、1980年10月30日、63頁。doi:10.11501/12258695 (要登録)

関連項目

  • 篠原秀吉 - 群馬県柔道連盟、群馬県体育協会の前任会長。
  • 羽生田進 - 旧制中学校の後輩で群馬県医師会の後任会長。羽生田が慶應義塾大学医学部の学生時代、関口は同病院の医局に所属していた。




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