錦野村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 14:44 UTC 版)
にしきのむら 錦野村 |
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廃止日 | 1956年8月1日 |
廃止理由 | 分割・新設合併・編入合併 大津町、陣内村、平真城村、瀬田村(一部)、護川村(一部)、錦野村(一部) → 大津町 錦野村(一部) → 山西村 |
現在の自治体 | 大津町、西原村 |
廃止時点のデータ | |
国 | ![]() |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 熊本県 |
郡 | 阿蘇郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 13.33 km2. |
総人口 | 3,166人 (国勢調査、昭和30年) |
隣接自治体 | 菊池郡菊陽村、陣内村、瀬田村、阿蘇郡山西村、長陽村、久木野村、上益城郡益城町 |
錦野村役場 | |
所在地 | 熊本県阿蘇郡錦野村 |
座標 | 北緯32度51分44秒 東経130度54分30秒 / 北緯32.86231度 東経130.90839度座標: 北緯32度51分44秒 東経130度54分30秒 / 北緯32.86231度 東経130.90839度 |
ウィキプロジェクト |
1956年8月1日、一部が大津町および菊池郡陣内村、平真城村、瀬田村(一部)、護川村(一部)と新設合併し、新町制による大津町となり、一部が山西村へ編入された。
沿革
- 1889年4月1日 - 町村制施行により外牧村、錦野村、岩坂村が合併し錦野村が発足。
- 1956年8月1日 - 大津町・陣内村・平真城村・瀬田村(一部)・護川村(一部)・錦野村(一部)が対等合併し、大津町となる。錦野村(一部)が山西村へ編入。
地理
大津町の南端に位置しており、村の北端に白川が流れている。東西に長く、東から外牧、錦野、岩坂の三地区に大別することができる。
歴史
基本的に大津町史に準拠する。
古代
南郷事蹟考には「能因法師ノ歌枕ニ在ル錦野トハ此所ナリ」と記されており、「京都の西木野、大徳寺を偲んで慕い来たり、真木の紅葉に錦を添える風景を吟じた」との所伝がある。
錦野古跡集覧によると、空海が訪れた際に濃淡、紅白の花が咲き乱れるつつじの美しさを見て錦野と称したとも伝えられる。
中世
阿蘇氏が次第に領主化するようになると、阿蘇家家文書に岩坂郷の名称が見られるようになり、阿蘇神社造営にあたり岩坂郷が諸役を負担しており、阿蘇氏の支配下にあったことがわかる。天正頃、近隣集落同様薩摩の島津家により潰滅させられたと考えられる。
阿蘇氏家臣、鳥子若狭守の居城があったともいわれる。
近世
細川氏の時代には阿蘇・布田手永に属し、会所は元々上鳥子にあり、享保6年(1721年)の大水害の後布田村に移った。
寛永11年(1634年)、国武忠左衛門が畑井手を開墾し、108町歩をうるおし、鳥子村総高1190石余のうち、403石余を外牧村として独立することとなった。
布田手永手鑑(宝暦7年)による錦野村(岩坂、錦野、外牧の旧三ヶ村合計)は竃数394、男女1769、牛馬566、高1776石、諸開12町9反6畝余、請薮約9町8反6畝、鳥鉄砲札12枚、山口(岩口2、外牧2)である。
細川藩家老米田氏の知行は合志郡の白川流域や南郷布田地区等にあり、総知行の63.1%(肥後細川家侍帳肥陽諸士鑑)が現大津町とその周辺にあった。
教育
- 錦野村立錦野小学校
- 錦野村立岩坂小学校
- 組合立菊阿中学校
関連項目
外部リンク
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