酈食其の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:49 UTC 版)
後漢の時代になると、酈食其の子孫と称した范陽(現在の河北省保定市定興県)の人である酈炎、字は文勝が霊帝の時代に存在した。彼は、弁舌爽やかで文辞と詩に巧みで、親孝行で音律に長じていた。朝廷は彼を州郡の官吏として招聘したが、酈炎はこれに応じなかった。その後、酈炎は精神的な病にかかり若くして認知症になった挙句に母が死去した。認知症になった酈炎の妻は初産であったが、夫の病気に驚いてそのまま亡くなると、妻の実家は女婿の酈炎を訴訟したため、175年に州郡は酈炎を逮捕して投獄した。病にかかった彼はまともに返答ができないまま、過酷な拷問に耐え切れずについに獄死した。享年28。酈炎の師であった盧植は彼の死を惜しみ、これを称える徳行の詩を謳った。
※この「酈食其の子孫」の解説は、「酈食其」の解説の一部です。
「酈食其の子孫」を含む「酈食其」の記事については、「酈食其」の概要を参照ください。
- 酈食其の子孫のページへのリンク