郡寺の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 23:36 UTC 版)
郡寺論の端緒となったのは、1946年に発表された田中重久の「郡名寺院」論である 。郡名寺院とは、郡名で呼ばれる地方寺院のことである。その後、山中敏史は、郡衙の周辺に寺院が多数存在することに着目し、これらの寺院を考古学の見地から「評・郡衙周辺寺院」と呼んだ。また、櫻井真也は、日本史学の見地から「評・郡衙隣接寺院」と呼んだ。こうした郡寺は各地の郡司層の関与のもとで造営されたと考えられるが、これらの寺院が公的な色彩を持っていたとする議論には批判もある。 郡寺の主要な諸説は以下のようなものがあるという。 氏寺説:同系氏族の長が建て、その子孫により、帰衣相伝された祈願所・寺院。氏族寺や私寺とも呼ばれる。 官寺説:評衙・郡衙の付属の寺とする説 公寺説:郡司の氏寺であり、公的機能を伴ったとする説 知識寺説:渡来人などを含めた、複数の氏族による施設とする説 家寺説:氏より細分化された家による施設とする説 準官寺説:郡司を核に、知識寺機能に公的・官寺的機能があるとする説 三舟隆之は、氏寺説以外の説を批判しつつ「今後の研究の進展に期待する」とした。後に三舟は、神郡には古代寺院が存在しない(小規模な仏堂のぞく)と指摘した。
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