遊山船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 12:47 UTC 版)
『遊山船』または『遊山舟[1][2]』(ゆさんぶね)は、上方落語の演目。
喜六が眺めていた船遊びをする人々の中に錨柄の浴衣をそろいで着た一行がおり、声を掛けると当意即妙な答が返ってきたので、帰宅して妻に真似をさせようとする模様を描く。
宇井無愁は安永2年(1773年)刊『仕方囃口拍子』収録の「碇」(錨模様の袷を見せた男が「変な模様」と言われて「ぶちころしても流れぬためサ」と答える内容)を挙げている[3]。また、前田勇『上方落語の歴史 増補改訂版』には、桂松光が万延2年(1861年)に作成した演目帳『風流昔噺』に「夏船遊いかり湯方そろゑばなし 但シさってもきたないいかりの模様質おいても流れんように」と記載されていることが紹介されている[1][2]。
あらすじ
大川に夕涼みに来た喜六と清八。浪花橋から見下ろすと、揃いの錨の柄を着た連中をのせた屋形船が通りかかる。清八が「さてもきれいな錨の模様」と褒めると、船上の女性は「風が吹いても流れんように」と粋に返す。清八から「お前のかみさんには、こんな粋なことは言えないだろう」と言われた喜六は家に帰り、錨の柄の古い着物を引っ張り出して女房に着せ、舟に見立てたたらいに立たせる。その着物のきたないこと。橋に見立てた天窓から「いやぁ、きたないなぁ。見ればきたない錨の模様」と声をかけると、女房は機転を利かして「質に置いても流れんように」と返すのだった[2]。
バリエーション
6代目笑福亭松鶴は(「見ればきたない錨の模様」を)「さってもきたない錨の模様」と変えているが[2]、これは前記の『風流昔噺』と同じ言い回しである。また前田勇によると、早く切り上げるときには「流れん先に利上げしといた」という落ち(サゲ)も使われるとしている[1]。
作品の舞台
大阪では、豊臣秀吉により開削された東横堀川を皮切りに縦横に堀川が巡らされ、舟運による経済発展に寄与する[4]。冷房機器はおろか扇風機もない時代において、川沿いの水辺は庶民にとって格好の納涼の場となった[5]。大川納涼場は明暦年間に始まり、明治の終わりごろまで賑わいが続いたと考えられている[6]。浪花橋(難波橋とも。読みはいずれも「なにわばし」)・天神橋・天満橋は浪華三大橋と呼ばれ、中でも眺望に優れた浪花橋は花火見物や夕涼みに人気があった[7]。橋上の露店のほか、1899年の新聞には涼み船相手にうどん、ぜんざい、アイスクリームなどを売る物売船の挿絵が掲載されている[8]。
令和の現在においては、大阪水上バス「アクアライナー」が大川の難波橋下を通年航行している[9]。
脚注
- ^ a b c 前田勇 1966, p. 294.
- ^ a b c d e (東大落語会 1973, pp. 445–446)
- ^ 宇井無愁 1976, p. 543.
- ^ “コラム2 「水の都」大阪”. 大阪市役所建設局道路河川部 (2025年1月7日). 2025年8月4日閲覧。
- ^ “第648回落語研究会” (PDF). TBSテレビ (2022年6月29日). 2025年8月4日閲覧。
- ^ (山口・林 2023, pp. 216–217)
- ^ “上方落語の舞台を歩く”. 中之島みらいまち協議会. 2025年8月4日閲覧。
- ^ (山口・林 2023, pp. 218–219)
- ^ アクアライナー(大阪水上バス)
参考文献
- 前田勇『上方落語の歴史 改訂増補版』杉本書店、1966年。NDLJP:2516101。
- 東大落語会『落語事典 増補』青蛙房、1973年。NDLJP:12431115。
- 宇井無愁『落語の根多 笑辞典』角川書店〈角川文庫〉、1976年。NDLJP:12467101。
- 山口匡輝・林倫子「明治期の大阪大川納涼場の営業実態及び市内遊所とのつながり」(PDF)『景観・デザイン研究講演集』第19巻、土木学会、2023年12月、216-222頁、2025年8月4日閲覧。
関連項目
- 『船弁慶』 - 遊山船と同じく難波橋を舞台とした噺で、、喜六と清八が登場する。
- 『うちの師匠はしっぽがない』 - 上方落語を描いた漫画作品、および同作を原作としたテレビアニメ。原作・アニメとも、第1話で遊山船が扱われた。
遊山船と同じ種類の言葉
- 遊山船のページへのリンク