辻哲也とは? わかりやすく解説

辻哲也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 00:50 UTC 版)

辻 哲也
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府箕面市桜ケ丘
生年月日 (1949-01-19) 1949年1月19日
没年月日 (2024-06-05) 2024年6月5日(75歳没)
身長
体重
177 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1972年 ドラフト7位
初出場 1973年8月3日
最終出場 1973年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

辻 哲也(つじ てつや、1949年1月19日 - 2024年6月5日)は、大阪府出身のプロ野球選手外野手)。

息子は元プロ野球選手・プロ野球コーチの辻竜太郎(選手時代の登録名は「竜太郎」)。

来歴・人物

浪商高校では1966年夏の甲子園大阪府予選準々決勝に進出するが、再試合の末、北陽高に敗退。チームメートに大原和男投手がいた。明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1年上の古屋英雄、大学同期の今井恒夫の好投もあって1969年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では、東海大上田二郎に抑えられ2回戦で敗れる。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表。リーグ通算75試合出場、262打数79安打、打率.302、1本塁打、23打点。ベストナイン3回。他の大学同期に一塁手鈴木一比古らがいた。

卒業後に日本楽器へ入社。1971年から都市対抗に2年連続出場。1972年都市対抗では左翼手、四番打者として起用され、新美敏池谷公二郎両投手を擁し勝ち進む。決勝では新美が三菱自動車川崎を完封、初優勝を飾った[1]。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出される。

1972年ドラフト会議中日ドラゴンズから7位指名を受け入団。社会人屈指の好打者として期待されたが、出場機会に恵まれず1975年引退した。

2024年6月5日に死去。75歳没[2]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1973 中日 4 3 3 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .333 .667
通算:1年 4 3 3 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .333 .667

背番号

  • 43 (1973年 - 1975年)

脚注

  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 【オリックス】辻竜太郎打撃コーチの父・哲也さんが死去 元中日外野手75歳”. スポーツ報知 (2024年6月7日). 2024年6月7日閲覧。

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