しずがたけ‐の‐しちほんやり〔しづがたけ‐〕【賤ヶ岳の七本槍】
賤ヶ岳の七本槍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:17 UTC 版)
「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の記事における「賤ヶ岳の七本槍」の解説
加藤清正 - 松田敏幸秀吉家臣。 福島正則 - 伊藤裕正秀吉家臣。 加藤嘉明 - 浪花勇二秀吉家臣。 脇坂安治 - 笠兼三秀吉家臣。 片桐且元 - 吉見一豊秀吉家臣。 平野長泰 - 高橋秀綱秀吉家臣。 糟屋武則 - 大地草太秀吉家臣。
※この「賤ヶ岳の七本槍」の解説は、「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の解説の一部です。
「賤ヶ岳の七本槍」を含む「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の記事については、「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の概要を参照ください。
賤ヶ岳の七本槍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:28 UTC 版)
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と呼ばれる。 脇坂安治(1554年-1626年) 片桐且元(1556年-1615年) 平野長泰(1559年-1628年) 福島正則(1561年-1624年) 加藤清正(1562年-1611年) 糟屋武則(1562年-不詳) 加藤嘉明(1563年-1631年) 「賤ヶ岳の七本槍」という名称は、江戸初期の『甫庵太閤記』が初見である。7人というのは語呂合わせで、実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉家一・石川兵助一光も同様である。天正期成立の大村由己『天正記』内「柴田合戦記」には、7人に加え桜井・石川の9人が挙げられている。 後年七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至ったが、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。
※この「賤ヶ岳の七本槍」の解説は、「賤ヶ岳の戦い」の解説の一部です。
「賤ヶ岳の七本槍」を含む「賤ヶ岳の戦い」の記事については、「賤ヶ岳の戦い」の概要を参照ください。
賎ヶ岳の七本槍と同じ種類の言葉
七本槍に関連する言葉 | 七本槍(しちほんやり) 小豆坂七本槍 賎ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり) 上田七本槍 蟹江七本槍 |
人に関連する言葉 | 賢士 賢者 賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり) 質権設定者 賽人 |
- 賎ヶ岳の七本槍のページへのリンク