苅田種継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 17:14 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動苅田 種継(かりた の たねつぐ)は、平安時代初期の貴族・儒学者。姓は首。子に紀安雄がいる。官位は従五位下・助教。
経歴
讃岐国苅田郡出身。天長8年(831年)直講を務めていた際、淳和天皇の神泉苑への行幸に召されて、主税頭・安野真継と『春秋』について、阿波守・善道真貞と『三礼』について議論をした[1]。
仁明朝の承和2年(835年)外従五位下に叙せられる。のち、内位の従五位下・助教に叙任された。
逸話
仁明天皇は経学を深く尊んでいて、しばしば儒者を召して、御前で議論をさせていた。ある時天皇は、大学博士・御船氏主と助教・苅田種継の両人を召して経義について議論させた。氏主は礼を執り、種継は伝を挙げ、激しい議論の末、決着がつかなかった。当時、怪力の持ち主であった左近衛・阿刀根継と右近衛・伴氏永の二人が相撲上手で天下無双とされていたことから、天皇は戯れに氏主を氏永に、種継を根継に例えたという[2]。
官歴
『六国史』による。
脚注
参考文献
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