能忍没後とは? わかりやすく解説

能忍没後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 16:24 UTC 版)

日本達磨宗」の記事における「能忍没後」の解説

能忍没後弟子東山覚晏が教団継承し門下懐奘1198年 - 1280年)らと共に大和国奈良県)の多武峰中心として活動続けた。ところが、今度南都興福寺門徒らの焼き討ち遇い越前国福井県)に逃れた1227年)。 越前では、白山天台宗拠点一つである波著寺を本拠とした。覚晏の没後1234年懐奘が、1241年には、門弟中の懐鑑、義介1219年 - 1309年)らが、深草京都府)の興聖寺本拠としていた道元の下に参じた以前は、これで達磨宗活動終焉迎えたとされていたが、近年では、中世末まで三宝寺にはその門流伝承されていたことが知られるようになった。さらに、覚晏系統傍流で、三宝寺一派本流であったとさえ考えられている。

※この「能忍没後」の解説は、「日本達磨宗」の解説の一部です。
「能忍没後」を含む「日本達磨宗」の記事については、「日本達磨宗」の概要を参照ください。

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