紀元前388年の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 05:25 UTC 版)
「ローマ・アエクイ戦争」の記事における「紀元前388年の反乱」の解説
紀元前390年、ガリア人がアッリアの戦いでローマに勝利し、続いてローマを略奪した。古代の歴史家は、紀元前389年にローマが打撃を受けたと見たエトルリア、ウォルスキおよびアエクイは戦備を整えたとする。リウィウスとプルタルコスによれば、アエクイはその軍をボラエ(en)に終結させた。しかしローマの独裁官マルクス・フリウス・カミルスはウオルスキに大勝利を収めたばかりであった。フリウスはアエクイ軍を奇襲し、その野営地とボラエを占領した。シケリアのディオドロスによれば、カミルスが攻撃を仕掛けたとき、アエクイ軍はボラエを包囲中であった。リウィウスによると、紀元前388年のローマ軍は再びアエクイ領を略奪したが、抵抗は受けなかったとする。オークレー(1998)は、紀元前389年と紀元前388年のローマのアエクイに対する勝利は、紀元前304年までアエクイに関する記録がなくなることから、歴史的事実と考えている。しかし原資料の不一致のためボラエでの戦いの正確なことは不明である。ボラエはラテン人の都市であるが、ローマとアエクイの戦いの場であり、何度か立場が変わっている。このため、ボラエをアエクイが占領した後にローマが再占領した、あるいはアエクイの包囲は失敗した、の双方が考えられる。
※この「紀元前388年の反乱」の解説は、「ローマ・アエクイ戦争」の解説の一部です。
「紀元前388年の反乱」を含む「ローマ・アエクイ戦争」の記事については、「ローマ・アエクイ戦争」の概要を参照ください。
- 紀元前388年の反乱のページへのリンク