精忠神社とは? わかりやすく解説

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精忠神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 13:15 UTC 版)

精忠神社[1]
所在地 栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8-33
主祭神 鳥居元忠[1]
創建 正徳2年(1712年[1]
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精忠神社(せいちゅうじんじゃ)は、栃木県下都賀郡壬生町神社[1]干瓢神社とも呼ばれている[1]

歴史

正徳2年(1712年[1]壬生藩鳥居家によって、祖先の鳥居元忠を祀るための社として創建された[2]。藩政時代には「御霊社」と呼ばれた[2]

鳥居元忠は徳川家康に仕えた武将で、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで討死した。鳥居家は以後2度にわたって改易処分を受けながらも、元忠の功績によって家名が存続された[注釈 1]正徳2年(1712年)、若年寄を務める近江水口藩主・鳥居忠英ただてるが3万石に加増の上で壬生に移封され、以後壬生は鳥居家の治める所となる。

創建時の社は、壬生城二の丸の西北隅にあった[2]寛政11年(1799年)6月22日[1]光格天皇の時に[1]精忠霊神」の神号を与えられ[2]、壬生城本丸に移された[2]。その後、嘉永2年(1849年)の元忠の250年忌を機として、再び二の丸(現在地)に移された[2]。明治5年(1872年)には神社の改修と濠の埋め立てが行われ、現在見られる姿になっている[2]

境内

境内には、元忠が自害した血染めのを埋めた「畳塚」がある[4]江戸時代には、血染めの畳は元忠の忠義を記念するものとして江戸城伏見櫓の階上にあったが[5]江戸開城後に壬生藩に渡ったものである[5]

他にも「干瓢発祥二百五十周年記念碑」がある。現在、栃木県の特産物となっている干瓢は、忠英が旧領の水口藩からユウガオ種子を取り寄せて普及させたのがきっかけ[4]とされている(壬生藩#特産品参照)。

交通アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 元忠の子・鳥居忠政は最終的に山形藩22万石の大名となる。忠政の子・鳥居忠恒が没した際、末期養子の禁に触れて所領没収となるが、忠恒の弟・鳥居忠春が家名を継承することが認められ、信濃高遠藩3万2000石の藩主となった。忠春の子・鳥居忠則の時に不祥事から改易となるが、「先祖の勲功」が考慮され、忠則の子・鳥居忠英能登下村藩1万石が与えられて家名が存続した[3]。忠英は近江水口藩に移され、その後当地壬生に移封された。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 『味百年 食品産業の歩み』 日本食糧新聞社、1967年9月15日。p.373
  2. ^ a b c d e f g III.壬生城の構造>4.その他の施設>(3)城内の社寺”. 壬生城郭・城下町解説書. 2025年3月29日閲覧。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五百六十「鳥居」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.1053
  4. ^ a b 栃木県歴史散歩編集委員会 編『栃木県の歴史散歩(歴史散歩9)』山川出版社、2007年、p.235
  5. ^ a b 精忠神社”. みぶの文化財. 2025年3月29日閲覧。

参考文献

  • 栃木県歴史散歩編集委員会 編『栃木県の歴史散歩(歴史散歩9)』山川出版社、2007年



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