第5回、第6回押出し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 02:27 UTC 版)
判決は1902年3月15日と決まったが、これに合わせて、2月19日、3月2日に、第5回、第6回の押出しが行われた。第5回押出しは、それまでの雲龍寺ではなく、埼玉県利島村(現加須市)の養性寺を起点として行われた。雲龍寺でも農民が1100人程度集結したが、警官の監視が厳しく、実際に東京に向かえたのは養性寺組の700名だけだった。この押出しは、女性が多かったため女押出しとも呼ばれる。女性5名が近衛篤麿貴族院議長との面談に成功した。 第6回押出しも、養性寺を起点として行われ、農民2000名が東京に向かい、うち7名が3月6日に平田東助農商務大臣との面会に成功。大臣は第2次鉱毒調査委員会の設置を確約させることに成功した。ただし、第2次鉱毒調査委員会の設置は、既に閣議決定されていて、公布されていないだけであった。委員会は、実際に3月15日に設置された。別の日に内務省に150名がなだれこんだが、内務大臣は面会を拒否した。
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