立原杏所とは? わかりやすく解説

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立原杏所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 14:32 UTC 版)

立原 杏所(たちはら きょうしょ、天明5年12月26日1786年1月25日) - 天保11年5月20日1840年6月19日))は、江戸時代中期から後期にかけての武士南画家水戸藩7代藩主・徳川治紀、8代・藩主斉脩、9代藩主・斉昭の3代に仕える。本姓平氏は任。字は子遠。甚太郎のち任太郎とも。東軒、玉琤舎、香案小吏、杏所と号した。杏所の号は、生まれた横竹隅の庭内に杏樹があり、そこから取ったとも言われる。


  1. ^ 翠軒撰文、杏所書になる十江の墓碑銘(現水戸市元吉田町の清巌寺)
  2. ^ 小泉斐 『門人録』
  3. ^ 森銑三『人物逸話辞典 下巻』(東京堂出版1987年) 35、36頁参照。
  4. ^ 淡雅は若い頃学者を志したが果たせなかったため、自分の嗣子は学者から迎えたいと考えていた。そのため儒学者である大橋訥庵が長女・巻子の婿養子に迎えられた


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