確認できる生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 05:58 UTC 版)
かつては非実在説が唱えられたこともあるが、堀田氏時代の公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことが確認された。児玉幸多によって「公津村に惣五郎という農民がいて、村内で1~2の田畑や屋敷を持っていたこと、承応2年8月に刑死をし、子供4人が同時に殺されたこと、その祟りがあるのというので、里民が石の祠を建てたこと」などが明らかとなった。 1715年に成立した『総葉概録』(佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、堀田氏時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと、「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと、堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟りとみなされたこと、このために「惣五宮」という祠が建てられたことが記されている。しかし、惣五郎が一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はない。
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