真蔵院_(埼玉県宮代町)とは? わかりやすく解説

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真蔵院 (埼玉県宮代町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/16 14:16 UTC 版)

真蔵院
所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町須賀1264
位置 北緯36度02分03.7秒 東経139度42分14.3秒 / 北緯36.034361度 東経139.703972度 / 36.034361; 139.703972座標: 北緯36度02分03.7秒 東経139度42分14.3秒 / 北緯36.034361度 東経139.703972度 / 36.034361; 139.703972
山号 医王山
院号 真蔵院
宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王
創建年 鎌倉時代
中興年 寛永2年(1625年
中興 俊雅法印
文化財 円空仏(如来形立像)(宮代町指定文化財)
真蔵院
真蔵院 (埼玉県)
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真蔵院(しんぞういん)は、埼玉県南埼玉郡宮代町にある真言宗智山派寺院

歴史

鎌倉時代開山された。伊藤光重は鎌倉幕府の北条氏に仕えていたが、讒言を被り会津の草江貞氏に匿われた。北条時氏経時という記録もある)は、討伐軍を会津に派遣して光重を討ち取った。討伐軍は光重の首をに納め、鎌倉に帰還しようとしたが、当地に至って急に重くなり、動けなくなってしまった。櫃の蓋を外したところ、そこにあったのは光重の首ではなく薬師如来像の首であった。そのことを鎌倉の時氏に報告した。時氏は別途使者を会津に派遣したところ、光重は無傷で、ただ光重が尊崇していた薬師如来の首が無かった。また光重の罪が冤罪であることも判明し、時氏は光重を赦し、霊験あらたかな薬師如来の首を鎌倉に迎えようとしたが、重すぎて鎌倉に運ぶことができなかった。そのため、現地にて薬師堂を建てて安置することになった。これが当院の起源である。二十数年後に、胴体部分を改めて造り、首を繋ぎ合わせた[1][2][3]

1625年寛永2年)、俊雅法印によって中興された。なお光重の故事もあり、会津藩藩主参勤交代の際に当院に燈料を寄付し、武運長久の祈祷をすることが習わしとなっていた[4][1][2][3]

1901年明治34年)の火災で、薬師像は焼失してしまっている[1][2][3]

文化財

  • 円空仏(如来形立像)(宮代町指定文化財 平成24年3月31日指定)[5]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c 医王山真蔵院略縁起 真蔵院宮代町郷土資料館
  2. ^ a b c 医王山真蔵院身代薬師如来縁起宮代町郷土資料館
  3. ^ a b c 薬師如来因縁記 真蔵院宮代町郷土資料館
  4. ^ 埼玉県佛教会 監修『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』千秋社、2001年、461p
  5. ^ 指定文化財一覧宮代町

参考文献

  • 埼玉県佛教会 監修『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』千秋社、2001年



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