看護婦としての「かた」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 16:03 UTC 版)
1895年、離婚して自立のために文京区本郷にある帝国大学付属看護婦養成所に入所した。6期生で定員は40名。同級生は上級武士の娘などが多かった。当時の外科病棟は1等室が1人部屋で6床、2等室は4人部屋で16床、3等室は12人部屋で48床。教授陣はエルヴィン・フォン・ベルツユリウス・スクリバなど充実し、解剖もあった。幼児を育てるのに苦労があった。在学中、海老名弾正により受洗した。2年後優秀な成績で卒業し、内科学の三浦謹之助の直接看護婦を勤めた。当時は富裕層の家庭へ訪問看護もあり、三浦教授から習ったドイツ式のマッサージが役に立った。北海道から東京に帰っても訪問看護があったが、料亭「富貴楼」、三菱の「岩崎邸」、古河邸、細川護立の細川侯爵邸などにもいった。1913年、1915年の記載に訪問看護で生活を支えるとある。
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