百年計画の植木
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:42 UTC 版)
明治11年秋、暉皃は濃尾大演習拝観の旅に出て、伊勢神峠(当時伊勢加美峠と称し)より東の方は山高く緑は深いが、西するに従っで不毛となり、やがては緑もなくなるが、耕地は次第に肥沃となっていくのを目のあたりにして、「沃土の民と痟土の民と何れも等しく民であり乍ら、その幸不幸は如何であろう」と悩んだが、帰途の伊勢神峠で「山の民には樹木、平地の民には農産、海辺の民には魚塩の幸があり、夫々その処に従ってまことを致すものに幸を受け賜うのが神の御心である」と頓悟した。ここに暉皃は神の御心に従って山という山に樹本を繁殖させ、山民の共存共栄の基を開くことを深く決意した。 明治20年、75歳となった暉皃は百年計画の植樹を計画して、共有山井山に山の神を祭り、自ら鍬を振って杉苗を植え、「これが成木したら郷社八幡神社修繕の材とせよ」と語り、数日山に起き伏しつつ植林を督励した。100年余の時を経て、稲武の山には美しい杉が天をつくように伸びている。そして暉皃の思いも引き継がれ、山林経営と地域貢献、二つの柱をもつ古橋家の取り組みは、今なお続いているのである。
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