白党・黒党の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 15:15 UTC 版)
琉球処分の頃、尚氏琉球を存続しようとした頑固党の中でも、反抗の態度が消極的な白党(シルー)と親清国派で頑固に日本政府に反対する黒党(クルー)が存在した。この時、清国の上海にて発行された『申報』に、琉球の旧士族が王を立てることに関して議論が交わされており、そのあり方をめぐり白黒両党に二分されたという旨の記事が掲載された。それによると、白党は尚泰王を東京から迎えて再び王位に復することを目指し、黒党は尚泰王を無能とし叔父である朝直を立て、新王を立てたのちに属国となる旨を清国に密訴したという。また、日本の新聞にもこれと同内容の記事が掲載されていた。1872年の詔書御請をめぐり対立を深めていた旧琉球士族は、琉球の社稷存続を目標とする共通の思いはあったが、それゆえに両者の溝はより深いものとなった。
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