登坂秀とは? わかりやすく解説

登坂秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 04:49 UTC 版)

登坂 秀(とさか しげる、1923年大正12年〉7月15日[1][2][3][4] - )は、日本の政治家渋川市長を務めた。

経歴

群馬県群馬郡豊秋村(現・渋川市)の農家に生まれる[3]。旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を経て1943年に東京高等農林学校(現・東京農工大学)農学科を卒業[2][3]。同年農林省に入省[1][2][3]。兵役を終えて復員後は一時群馬県農業会に勤務[1][3]。農林省に復職し1971年には農林経済局課長補佐となる[2]。統計情報部企画情報課在職中に渋川市長・石北正司の招きにより[3]1973年に渋川市収入役に就任[2]

1981年、渋川市長選挙に立候補し初当選を果たす[1][2][3]。1985年、渋川市長選挙に出馬し2回目の当選。1989年、渋川市長選挙に出馬し3回目の当選。1993年、渋川市長選挙に出馬し4回目の当選。1997年、渋川市長選挙に出馬し5回目の当選。連続5期20年間にわたって渋川市長を務めた。2000年、渋川市とイタリア共和国ウンブリア州フォリーニョ市との姉妹都市提携を実現した。2001年、木暮治一を事実上の後継として、政界を引退した。

2023年7月、100歳を迎えたため、現市長の高木勉の訪問を受けた[5]

上記のほかに、群馬県市長会長[3]、群馬県市町村職員共済組合理事長、群馬県農業共済組合連合会長、渋川地区広域市町村圏振興整備組合理事長などの要職を歴任した。

人物

「日本のまんなか緑の渋川」というフレーズを考案し、渋川市を「へその町」として売り出し、「渋川へそ祭り」の開催を推進した。また、渋川市への日本シャンソン館の誘致や渋川市美術館、桑原巨守彫刻美術館の設立にも貢献した。さらに、埼玉県加須市及び本庄市との災害時相互応援協定を締結し、渋川市の安全安心都市の礎を築いた。

主な著書

  • 『美の町 人を潤す』白日社、2002年
  • 『語り継ぐ回天 ああ回天総集編 誕生から戦後六十年の歩み』(共著)赤坂印刷、2005年

脚注

  1. ^ a b c d 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、361頁。doi:10.11501/12189010 (要登録)
  2. ^ a b c d e f 上毛新聞社出版局 編『群馬県人名鑑』上毛新聞社、1986年11月25日、338頁。doi:10.11501/12192835 (要登録)
  3. ^ a b c d e f g h あさを社 編『県政風雲録』 2巻《二十一世紀への架け橋》、あさを社、2000年1月30日、217頁。 
  4. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、93頁。
  5. ^ 市長のフォトレポート(令和5年7月)”. www.city.shibukawa.lg.jp (2023年7月). 2023年7月17日閲覧。




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