男系断絶と所領の半減
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)
景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた。
※この「男系断絶と所領の半減」の解説は、「米沢藩」の解説の一部です。
「男系断絶と所領の半減」を含む「米沢藩」の記事については、「米沢藩」の概要を参照ください。
- 男系断絶と所領の半減のページへのリンク