生方賢一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 09:04 UTC 版)
うぶかた けんいちろう 生方 賢一郎 |
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本名 | 同じ |
生年月日 | 1882年1月6日 |
没年月日 | 1961年2月25日(79歳没) |
出生地 | ![]() |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 新劇、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1916年 - 1961年 |
配偶者 | 生方 環 |
著名な家族 | 生方明(息子) |
主な作品 | |
『闘ふ男』 『兄の花嫁』 『闘魚』 |
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生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日[1] - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である[2][3]。本名同じ[2][3]。
来歴
1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる[4]。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである[2][3]。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる[1][5]。
群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業[1][4][2][3][5]。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが[4]、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する[4][2][3]。それと同時に専属俳優として契約し、数多くの作品に出演した[2][3]。
戦後は新東宝に移り、1961年2月25日に79歳で死去するまで、同社の専属俳優として活躍した[2][3]。俳優の生方明は長男である[2][3]。
人物
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どこにでもいそうな個性のなさを生かして、村人B・農民Aのようなエキストラと紙一重の役回りながら、地味に役者としての味を発揮し映画界をしぶとく生き抜いた。大味で一本調子な演技はまったく物足りず、役者としての評価は非常に低いが、人あたりのよさで榎本健一・扇千景などと関係を持ち、数多くの映画に出演した。主な出演作品に、「闘ふ男」「兄の花嫁」「闘魚」「エノケンのとび助冒険旅行」などがある。
出演作
- 『吾輩は猫である』[4]
- 『藤十郎の恋』[4]
- 『川中島合戦』[4]
- 『姿三四郎』[4]
- 『闘ふ男』[5]
- 『兄の花嫁』[5]
- 『闘魚』[5]
- 『エノケンのとび助冒険旅行』[5]
- 『忠臣蔵』[5]
- 『生きている画像』[4]
出典
- ^ a b c 栗原新水『躍進群馬県誌』躍進群馬信交会、1955年10月21日、1115頁。doi:10.11501/3023072。(
要登録)
- ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、83頁。
- ^ a b c d e f g h 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、86頁。
- ^ a b c d e f g h i 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、83頁。doi:10.11501/12189010。(
要登録)
- ^ a b c d e f g 高山正『利根沼田の人物伝』上毛新聞社、2018年3月26日、282-283頁。ISBN 978-4-86352-205-3。
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
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