熊安生とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 熊安生の意味・解説 

熊安生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/01 03:08 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

熊 安生(ゆう あんせい、生没年不詳)は、中国南北朝時代儒学者は植之。本貫長楽郡阜城県

経歴

若くして学問を好み、精励して倦まなかった。はじめ陳達に春秋三伝を習い、次いで房虯に『周礼』を学んで、ともに大意に通じるようになった。後に徐遵明に師事した。東魏天平年間、李宝鼎に礼を学んだ。五経に通じるようになり、三礼の教授を専門とした。かれの学問を慕って遠方からも人が集まり、弟子は1000人を越えた。図緯を討論し、異聞を採集して、先儒の気づかなかったところに新しい知見を見出した。北斉河清年間、陽休之の推挙により国子博士となった。

568年天統4年)、北周の兵部の尹公正が使者として北斉にやってきたとき、話が『周礼』に及んだが、北斉の人で答えられる者がいなかった。そこで安生が賓館に派遣され、尹公正と語り合うと、その疑問に的確に答えてみせた。尹公正が帰国して北周の武帝に報告すると、武帝は安生に関心を抱くようになった。

577年建徳6年)、北周の武帝が北斉の首都であったを占領して入城すると、安生は門を掃き清めて声が掛かるのを待った。ときに武帝は唐突に安生の邸を訪れ、拝礼の声を聞く前に親しくその手を取り、同座に招き寄せた。安生は黄帝武王の故事を引いて、武帝を喜ばせた。武帝に従って、長安に入った。578年宣政元年)、露門学博士・下大夫に任じられた。まもなく致仕し、家で死去した。

安生の儒学の講義を受けた者には、当時の有名人も多かった。馬栄伯・張黒奴・竇士栄・孔籠・劉焯・劉炫らは、みな安生の門人であった。著書に『周礼義疏』20巻・『礼記義疏』40巻・『孝経義疏』1巻があり、当時に通行した。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「熊安生」の関連用語

熊安生のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



熊安生のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの熊安生 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS