瀬波湊と瀬波大祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:57 UTC 版)
昔の瀬波湊は、室町時代以降は三津七湊(さんしんしちそう)の土崎湊(秋田湊)から今町湊(直江津)への経由地であり、また江戸時代以降は北前船の寄港地として越後村上藩の海上の玄関口であった。 現在の浜町の海岸沿いの丘陵の上には、江戸時代に設置された方角石が残されている。村上藩はここに「沖ノ口番所」と呼ばれる番所を設け、港に出入りする船の確認、積荷の検査、税の徴収などを行っていた。 宝永年間初めに村上藩は15万石となると、加治川以北の領内の年貢米は、瀬波の御蔵に運ばれ船積みされていた。その後5万石に減封され、瀬波湊の廻米は打ち切りとなるが、藩の物資の搬入・搬出は続き、海沿いの浜町・新田町・横町は廻船問屋、蒸気茶屋が建ち並び大変に栄えていたといわれている。 港の繁栄とともに大祭も豪華さを増し、曳き回される屋台も増えていった。1885年(明治18年)に瀬波大火が起こるが、その際に焼失してしまった浜町と新田町の屋台は、堆朱・堆黒・金箔が塗られ、町内の繁栄を示すように大きな物だったといわれている。 1914年(大正3年)に羽越線が開通すると、物資の輸送は鉄道へと移って行き、次第に港は衰退してしまった。
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