漢奸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 13:42 UTC 版)
漢奸(かんかん、ハンジェン)とは、漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している[2][注釈 1]。
注釈
- ^ 「辞海」では「元々は漢民族の中のろくでなしを指していたが、現在は外国の侵略者に依存し、彼らの歓心を進んで買い、祖国の利益を売り渡す者。」とある。
- ^ 電話による会話に二言、三言の日本語が混じっていただけで一言の調べもなくその場で射殺されたり[11]、風景写真一枚を持っていただけで銃殺されたりすることが行われていた[12]。
- ^ 日本で研修を受けた医師四人の処刑が伝えられている[14]。
- ^ 「李香蘭」は芸名で、純血の日本人であることが証明されたため、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となった。
- ^ 同様にソ連の追及から逃れて後に捕まった人物としては、于芷山や張煥相もいるが、この両名は撫順戦犯管理所に収容され極刑は免れた。孫其昌と張海鵬が処刑に至った決定的な理由、ないしは他の満洲国関係者との相違点については、明らかとなっていない。
出典
- ^ a b 『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1938年2月1日)
- ^ 王柯 2006, p.28
- ^ 下記節参照
- ^ 王柯 2006, p.41
- ^ 王柯 2006, pp.33-34
- ^ 吳密 (2011年). “民族和国家的边缘——清代“汉奸”名实关系及其变迁”. 中國人民大學博士論文.
- ^ “孙中山研究亟需注意版本问题”. 2024年1月20日閲覧。
- ^ 王柯 2006, pp.32-33
- ^ 王柯 2006, pp.37-38
- ^ a b c d e f 辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)
- ^ 『読売新聞』1937年9月15日
- ^ 「日支混血青年を銃殺 風景写真一枚で"漢奸"の罪名」 『読売新聞』1937年9月3日付第一夕刊、2面)
- ^ 『読売新聞』1937年9月14日
- ^ The New York Times, August 27, 1937)
- ^ 『読売新聞』1937年8月29日付第二夕刊
- ^ 『読売新聞』1937年8月30日付号外
- ^ 『東京朝日新聞』1937年8月29日付号外
- ^ The Times, September 27, 1937
- ^ 同様の写真は『読売新聞』1937年9月22日付第一夕刊2面にも掲載されている
- ^ a b 『読売新聞』1937年9月15日
- ^ The New York Times, August 30, 1937
- ^ 『東京朝日新聞』1937年(昭和12年)10月29日付朝刊
- ^ a b 『東京朝日新聞』1938年(昭和13年)1月5日付夕刊
- ^ The New York Times, August 27, 1937
- ^ 東京日日新開1937年12月8日,『南京戦史』P273
- ^ 『読売新聞』1937年(昭和12年)12月2日付夕刊
- ^ 『南京戦史』p.273。上海1937年12月8日発東京日日新聞(記事内で中国紙の報道とする)
- ^ 辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日).『読売新聞』1937年(昭和12年)12月2日付夕刊
- ^ 深田匠 2004, p.137
- ^ 和田英穂、「戦犯と漢奸のはざまで 中国国民政府による対日戦犯裁判で裁かれた台湾人」『アジア研究』 2003年 49巻 4号 p.74-86, doi:10.11479/asianstudies.49.4_74, アジア政経学会
- ^ “【蓮舫家族祕史】台裔蓮舫祖母陳杏村 台中日三地奇女子(二)”. www.new7.com.tw. 新新聞. 2017年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月24日閲覧。
- ^ 矢吹晋 2007, pp.74-77
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