湯田砦の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:31 UTC 版)
『関八州古戦録』巻10「多賀谷政経乗捕湯田砦事」には、関宿城落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、猿島領が後北条氏の持分となったため、北条氏政が伊勢備中守貞連に命じて湯田村(坂東市弓田)に砦を築かせ、飯沼の対岸にあった天満天神の社を焼き払って城を築き、風間孫兵衛(または孫右衛門)と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは多賀谷政経の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。 同書によると、多賀谷政経・重経父子は、岡田原(常総市岡田)へ打ち出して湯田の城兵を花島(茨城県常総市花島町)へ誘い出し、鬼怒川の下流から兵を回して退路を断ち、古間木(茨城県常総市)の城主・渡辺周防守が仁連村(茨城県古河市)を越えて湯田砦を焼き討ちにして大勝し、後北条氏の軍勢は関宿城へ退却して、多賀谷氏が下猿島を占領し、大生郷天満宮を再建した、という。 類似の記事は、『関八州古戦録』以前に成立した下妻・多賀谷氏の家記にもみえる。
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