浅井輝政(あざい てるまさ) ????~1573
浅井万福丸
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浅井 万福丸[注釈 7](あざい まんぷくまる)は、 戦国時代の人物。北近江の戦国大名である浅井長政の長男。
注釈
- ^ 『浅井氏家譜大成』を根拠として、娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、長政の実子ではないという説もあるが、婚儀の時期が違うのでやはり長政の子という反論もある。(淀殿#出生について)
- ^ その年に生まれた子の意味。
- ^ 『翁草』『浅井三代記』によると浅井長政の滅亡の同年5月に生まれた当年子[注釈 2]で、中島左近、小川伝十郎が傅立てて近江国長沢村の福田寺の弟子となり[1]、慶安となったとする[2]。天正元年に産まれということはお江とは同い年なので庶子である[3]。『浅井氏家譜大成』では「虎千代丸長明」とされる[4]が、『寛政重脩諸家譜』では「万寿丸長秀」で、仏門に入り正芸と号し、院号は伝法院。近江国坂田郡長沢村の福田寺の住職となったとある[5][3][6]。この正芸はのちに還俗して、直政と名乗り、豊後に移住したとする別説もある[7]。
- ^ 桑田忠親は淀殿の末弟の出家僧を「蒼玉寅首座」として万寿丸にあてている[8]。
- ^ 『浅井氏家譜大成』によれば「喜八郎長春」[4]。
- ^ 『浅井氏家譜大成』によれば「円寿丸政治」[4]。
- ^ 旧字体「淺井萬福丸」。
- ^ 『信長公記』の「浅井備前が十歳の嫡男」から[10]。
- ^ 豊臣秀頼の研究者。
- ^ 北近江の長浜の付近の地名。
出典
- ^ a b c d 近藤瓶城 1919, p. 274.
- ^ a b 国史研究会 1915, p. 28.
- ^ a b 小和田 2014, p. 15
- ^ a b c 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ〈マイコミ新書〉、2010年。ISBN 9784839936211。
- ^ 北川 2008, p. 172.
- ^ 堀田 1923, p. 988
- ^ 野村義男「浅井長政二男直政調査異聞」(『真玉郷土研究会報』6号、1985年)
- ^ 桑田忠親『淀君』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1985年、49頁。ISBN 4642050043。
- ^ a b 国史研究会 1915, p. 27.
- ^ a b 近藤瓶城 1926, p. 93.
- ^ 太田浩司 著「北近江の戦国史」、長浜市長浜城歴史博物館 編『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』2008年。
- ^ 近藤瓶城 1919, p. 172-174.
- ^ 福田千鶴『江の生涯―徳川将軍家御台所の役割』中央公論新社、2010年、12-13頁。ISBN 9784121020802。
- ^ 近藤瓶城 1919, p. 278-279.
- ^ 北川 2008, p. 171.
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「浅井万福丸」の続きの解説一覧
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- 2 浅井万福丸の概要
- 3 参考文献
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