浅井田宮丸とは? わかりやすく解説

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浅井長時

(浅井田宮丸 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 05:20 UTC 版)

 
浅井長時 / 浅井田宮丸
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄12年(1569年
死没 天正12年3月6日1584年4月16日
改名 田宮丸(幼名)、長時
別名 政向[1]、長安[1]
戒名 直心院殿浄岸居士
主君 織田信長信忠信雄
氏族 尾張浅井氏
父母 浅井新八郎
兄弟 長時、女(市橋長勝正室)、政重、ほか
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浅井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。尾張国苅安賀城主。

経歴

浅井新八郎(諱は政貞等)の子[2]。『寛政重修諸家譜』では某とされ、母の記名はなく、幼名は田宮丸、諱は長時に作るとある[3]

天正10年(1582年)の本能寺の変以前に父の遺領[4]を継ぎ、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれる[2]

本能寺の変後は、尾張を領した織田信雄に仕える[2]

天正12年(1584年)正月、信雄の家老である岡田重孝津川義冬滝川雄利、長時の四名が羽柴秀吉に招かれて大坂に赴き、密談の後に起請文を書かされた。このとき唯一拒否して帰った滝川がこれを信雄に報告したため、信雄は長時らが秀吉に内通したと怒り、3月6日に三家老を長島城に呼び出した。そこで岡田を土方雄久に、津川を飯田正家に、長時を森久三郎[5]にそれぞれ誅殺させた。その後、苅安賀城は森に与えられた[6][7]

『重修譜』に長時の没年16とあり[3]谷口克広はそれでほぼ正しいだろうとする[2]

登場作品

脚注

  1. ^ a b 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、5頁。ISBN 9784797105551 
  2. ^ a b c d 谷口 1995, p. 19.
  3. ^ a b 堀田 1923, p. 988.
  4. ^ 父の生没年は不詳だが、『尾張群書系図部集』では天正9年(1581年)5月24日死去とされる。
  5. ^ 森勘解由、毛利伊勢守ともいう。同じく尾張衆で毛利高政の養父にあたる。高政の娘は新八郎の妻。
  6. ^ 徳富猪一郎国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 甲篇』 第4、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、281-283, 304頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223724/157 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 柴田顕正 編『国立国会図書館デジタルコレクション 岡崎市史. 別巻下巻』岡崎市、1935年、54-55頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170626/36 国立国会図書館デジタルコレクション 

参考文献




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