泉鏡花「歌行燈」のモデル説
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「瀬尾要」の記事における「泉鏡花「歌行燈」のモデル説」の解説
松本金太郎の甥にあたる作家・泉鏡花は1910年(明治43年)、代表作の一つである「歌行燈」で師に勘当された才能ある能役者・恩地喜多八を主人公としたが、そのモデルには瀬尾要を擬すのが通説となっている。 鏡花自身、1911年に雑誌『能楽』に掲載した文章で当時破門中だった要に触れており、 「天才の事で思い出したが、宝生流に瀬尾要と言うのがあった。一体宝生の若手連は遠眼鏡の尻から九郎の芸をのぞいた格で、小さい九郎が幾人も動いているようなものであるが、この瀬尾要にはこの仲間に見ることの出来ない、一種の特徴があって、単に模倣のみでない、個性から流れ出る犯すべからざる芸の力が見えた。…(中略)…凄い程の腕で、同じ型をやるにしても、自ずから気品が溢れでていた」 と絶賛している。 しかしこの説に対し、藤城継夫は要の兄弟子でやはり破門を受けた木村安吉がモデルという説を唱えており、村松定孝は喜多八には要のみならず、鏡花の従兄弟に当たる松本長の面影が投影されていることを指摘している。大河内俊輝も、モデルとなったのは要としながら、その風貌はやはり長をイメージしたものだろうと推測している。
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