河原津の合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:45 UTC 版)
河原津の合戦は『平家物語』巻第十二に記載されている。 これによると、平家を倒した源義経は、兄源頼朝が源義経を討ち取るため京に攻め上るという噂話を聞いたため、手勢500騎を引き連れて文治元年(1185年)11月3日に都から西国に逃走した。この報を聞いた太田頼基は「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と、太田城を出撃、河原津という場所に追い詰めた。この河原津という場所は、太田城から西国街道を通って、安威川にかかっている太田橋の西側の地名、現在の茨木市西太田町周辺である。 太田頼基は60騎で、源義経500騎を取り囲み攻撃したが、太田頼基自身も負傷し、多くが討たれ、馬も腹射され退却した。 勝利した源義経は、大物(現在の尼崎市)の浦より船に乗って下っていった。 「河尻の戦い」も参照
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