永島四郎 (実業家)とは? わかりやすく解説

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永島四郎 (実業家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 03:41 UTC 版)

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永島四郎(ながしま しろう、生年不詳 - 1978年[1])は、千葉県出身の日本の実業家調理師である。昭和初期に横浜市市民酒場の発展に尽力し、戦後には神奈川県ふぐ協会の設立に携わった。

来歴

千葉県久留里呉服問屋[2]の四男として生まれる。大正時代に横浜の伊勢佐木町に移り住み、酒屋を開業。故郷上総の酒を販売した。1923年の関東大震災で伊勢佐木町の店は被災し、数度の移転ののち横浜市南区睦町で店を再建。1927年には酒屋から飲食店に業態替えし、酒場の「忠勇」となった[3]。その頃には、小売免許を持つ酒屋が安く酒を仕入れることを生かし、つまみを提供して角打ちのサービスを始める店が増えた。これは、飲食店には脅威となった[4]1938年、永島は飲食店同業者の結束を強めることを目的として、「市民酒場組合」を結成した[3]。南区で発祥した市民酒場組合は中区西区保土ケ谷区神奈川区鶴見区にも支部が結成され、これらの支部を取りまとめる「横浜市民酒場組合連合会」が組織された。永島は飲食店の営業を守るため、保健所や市の衛生局、厚生省へも陳情を行った。国や県が飲食に対する増税を検討する中で、役人が店に調査に来ているのを見つけると「あれが遊興費に見えるのか。キャバレーに来ているのとは違うんだ」と、市民のささやかな楽しみを守るため、自治体だけでなく国へも訴えかけた[4]

第二次世界大戦の戦況が悪化し、1941年にはビール日本酒の流通が配給制となる。大衆酒場ではわずかな酒しか提供できず、適正な利益を得ることが困難になっていった。そこで、県は酒場を統合し、3店舗を1組とする「市民酒場」の制度を始めた。これには、永島が立ち上げた「市民酒場組合」が基礎となっていると考えられている[5]

戦後の復興期に入り、1947年に永島は横浜市民酒場組合連合会を母体として「神奈川県ふぐ協会」の開設準備を始める。1950年には同協会創設、神奈川県ふぐ取扱業取締条例が施行された。その翌年の1951年には「神奈川県ふぐ調理師免許」の第1回資格試験が実施された。永島は、ふぐ料理の調理技術を体系づけた功績から1968年勲六等単光旭日章を受章した[2]

1978年没。享年82[1]。永島が創業した「忠勇」をはじめ、30軒ほどの市民酒場は、現在も営業を続けている。

脚注

  1. ^ a b (いせたろう 2015, p. 19)
  2. ^ a b 一見、横浜に関係なさそうな「ふぐ」をまつる「供養碑」が本牧にあるのはなぜ?”. はまれぽ.com. p. 2 (2014年10月10日). 2019年6月28日閲覧。
  3. ^ a b (いせたろう 2015, pp. 17–18)
  4. ^ a b (いせたろう 2015, pp. 8–9)
  5. ^ (いせたろう 2015, pp. 183–184)

参考文献




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