永山時雄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 永山時雄の意味・解説 

永山時雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 13:28 UTC 版)

永山 時雄(ながやま ときお 1912年2月11日 - 1999年7月11日)は、神奈川県出身の官僚。旧通商産業省初代大臣官房長。

来歴・人物

神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、第一高等学校 (旧制)、1935年東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。入省同期に、斎藤正年(特許庁長官)、小出栄一(共石社長、経済企画事務次官)、鹿子木昇(アジア経済研究所所長、大阪通産局長)、小山雄二(中小企業庁長官)、油谷精夫(東京通産局長)など。

戦後、商工省外局貿易庁に、時の貿易庁長官に就任した白洲次郎が貿易庁と共に商工省も解体し新制・通商産業省へと改組する構想を松田太郎商工次官が掴み、当初その動向を監視するため、当時商工省物資調整課長であった永山が筆頭課長である貿易課長として送り込まれた。その後、逆に白洲らと歩調を合わせ「通商派」、「外交派」と括られることとなる。

当時の日本経済は、経済安定本部復興金融金庫による経済引締政策から方向転換し、ジョゼフ・ドッジにより経済の自由化へ舵を取り始めたばかりであった。それら潮流に合わせるように自由経済の下で輸出促進・経済復興を図ろうとした白洲の意を汲んだ永山が初代官房長(1949年5月-)に、新制通産省通商局長のポストを占めていた外務官僚の武内龍次黄田多喜夫牛場信彦(これらはのち外務事務次官)らが、通商行政の中心にいた。のち朝鮮特需により日本経済が回復基調に入ることにより、商工省の「統制派」の流れを汲む主流派に主導権が移り、繊維局長(1954年7月-1955年12月)のポストで退官。

退官後の1956年には第4回参議院議員通常選挙の神奈川地方区から自由民主党公認で立候補するが落選。のち1965年シェル石油入社。1968年2月から1984年12月まで昭和石油社長。1979年石油鉱業連盟会長。1985年昭和石油とシェル石油が合併し、昭和シェル石油会長に。大北一夫シェル石油社長が同社長に座った。1986年旧経団連副会長。勲一等瑞宝章(1987年)。ほかに、アギラ・アステカ勲章(墨、1983年)、オレンジナッソー勲章コマンダー章(蘭、1990年)。

子息に永山治中外製薬社長。

関連人物




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「永山時雄」の関連用語

永山時雄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



永山時雄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの永山時雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS