矢飼督之とは? わかりやすく解説

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矢飼督之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/29 23:34 UTC 版)

矢飼督之
生年月日 (1909-06-27) 1909年6月27日
没年月日 (1974-06-26) 1974年6月26日(64歳没)
死去地 茅ヶ崎市立病院
身長 175cm
体重 83kg
配偶者 イルマ[1]
ラグビーユニオンでの経歴
代表
チーム 出場 (得点)
1930  日本 1 ()

矢飼 督之(やがい よしゆき、1909年6月27日 - 1974年6月26日)は、島根県出身の実業家、元ラグビーユニオン選手。ラグビー日本代表として代表キャップ1番を授与された[2]

来歴

慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学に進学。普通部から大学まで11年間、慶應義塾體育會蹴球部(ラグビー部)で活動。がっしりとした体格で足が速かったため、プロップフッカーフランカーセンターウイングをこなした[3]

1930年(昭和5年)5月、史上初となるラグビー日本代表カナダ遠征メンバーに選ばれる[4]。9月1日から27日までの7試合のうち、第1・3・4・6・7試合に出場。第6試合として、9月24日カナダバンクーバーで行われた初めてのテストマッチとなるブリティッシュコロンビア州代表戦に左プロップ(背番号1)で出場した[5]

その後、日本ラグビーフットボール協会財務理事、黒黄会(慶應義塾體育會蹴球部OB会)理事、昭和石油専務、日本精蠟社長などを務めた[3][6]

逝去8年を過ぎた1982年(昭和57年)12月17日、日本ラグビーフットボール協会テストマッチ出場選手にキャップを授与し表彰する制度の導入を決定。初テストマッチまでさかのぼって77試合254人の出場選手に対し、1983年(昭和58年)1月16日にキャップ授与が行われた[7]。当時 背番号1で出場した矢飼は、日本代表キャップ番号1番となった[2][8]

関連項目

関連人物

脚注

  1. ^ [ https://adeac.jp/jrfu/viewer/mp000010-100020/23/?p=288 Vol.23 6号 矢飼督之氏急逝 矢飼君を憶う 小船伊助(早稲田OB)]日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム 機関誌『RUGBY FOOTBALL』
  2. ^ a b JRFU. “代表キャップ保持者一覧|日本ラグビーフットボール協会”. www.rugby-japan.jp. 2025年9月29日閲覧。
  3. ^ a b 「栄光の日本代表キャップ261人のラガーメン」『ラグビーマガジン イラストレイテッドNo.6 別冊ラグビーマガジン夏季号』ベースボール・マガジン社、1984年7月31日、44頁。 
  4. ^ 日本ラグビーフットボール協会『日本ラグビー史』日本ラグビーフットボール協会、1964年11月20日、239-240頁。 
  5. ^ ザ・ワールドラグビー(大友信彦 編、新潮社ISBN 4104627011)の48ページ
  6. ^ 金融屋としての白洲次郎21 - 余多歩き:楽天ブログ”. 楽天ブログ. 2025年9月29日閲覧。
  7. ^ 日本代表テストマッチ史 キャッププレーヤーについて”. 日本ラグビーフットボール協会. 2022年11月14日閲覧。
  8. ^ 日本代表テストマッチ史 昭和5年(1930)9月24日 △日本代表 3-3 カナダBC州代表△日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム,

参考文献




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