横平山の奪取と抜刀隊の投入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
「西南戦争」の記事における「横平山の奪取と抜刀隊の投入」の解説
官軍は田原坂防衛線突破のため、3月9日横平山の攻略にとりかかった。ここは半高山から張り出す支脈の一つで、ここを抑えれば二俣台地の右翼を防衛し、かつ薩軍の長大な防衛線の中央に突出して攻略の足掛かりにある場所であった。しかし攻撃は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、征討軍は薩軍の抜刀白兵戦への早急な対処を迫られることになった。 薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、征討軍は3月13日、植木口警視隊(編成は下記)の中から剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成した。3月14日、征討軍は田原坂攻撃を開始し抜刀隊も投入される。抜刀隊はたちまち3つの堡塁を奪うが後続が続かなかったので薩軍の反撃を受け後退した。しかし、抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて軍歌『抜刀隊』が作られた。 征討軍は3月15日、横平山攻撃に抜刀隊50名を加え猛攻をかける。彼らは薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日初めて征討軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。16日は、戦線整理のために休戦した。17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることはできなかった。この間、3月4日からの征討軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名に上った。
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