梅津教知とは? わかりやすく解説

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梅津教知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 11:57 UTC 版)

 
梅津 教知
梅津 教知
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 陸奥国仙臺藩(現宮城県仙台市
別名 敬蔵
墓所 宮城県仙台市青葉区東昌寺
主君 仙臺藩主、明治天皇
父母 父:梅津教篤(仙臺藩士)
兄弟 教知、篤信、貞範、敬治
配偶者 奥山照子(奥山正胤・奥山牧子の娘)
奉職神社
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梅津 教知(うめづ のりとも、天保9年12月〈1839年1月〉 - 明治25年〈1892年6月10日、享年55才)は、神道家、神官(大講義)、女子教育推進者、士族

教知は、教部省の官吏にして神道学者であった井上頼囶(天保10年(1839年)生 - 大正3年(1914年)没)の蔵書(神習文庫)に梅津教知の書簡があったことより、井上頼囶と面識があったと窺える。

奥山 照子

生涯

明治元年(1868年12月15日、奥山正胤(文化2年(1805年)生 - 明治17年(1884年)没、権大講義)の紹介により、平田篤胤家に入門した。梅津教知の名が明治元年に平田門人帳に登載されている。その後、静岡県三嶋大社の主典を務めた[1]

明治6年(1873年)2月28日、札幌神社(現北海道神宮)初代宮司兼教導職の大講義に任じられた[2]

同年3月30日大教院に「教法宣布の管見」たる意見書「北海道教法見込」[注釈1]を提出した。この「北海道教法見込」は、神仏合同の大教宣布を目指した提案であったと看做すことができるもので[3]、大教院の中教正鴻雪爪および権大教正三条西季知を通じて、4月17日教部省に伺い出された。また同日に梅津教知が教部省に上申するために著わしたと考えられる「女教考案」が、井上頼囶所蔵書類にある[注釈2]。

5月18日、「神拝祝詞」を著わす[注釈3]。

6月17日、明治政府の教部省の方針のもと、女教院が開講し、7月22日、東京の神田大和町にて女教院の教師である奥山照子(梅津教知の妻)および平田長子が、「女教師請待」として説教を行った[注釈4]。

7月、現地に赴任することなく、札幌神社宮司をわずか5ヶ月ばかりで退職した[4]。のち、金華山黄金山神社祠官を務めた。

明治12年(1879年)1月9日、梅津教知私邸(仙台市東二番丁76番地)に、私立仙臺女紅場(せんだいじょこうば、教育施設)を、妻奥山照子と共に開設した[注釈5~11]。女紅場の運営には教知の弟の梅津貞範が関わった。教知は、自ら著した「女教考案」に見られる女子教育の理念を唱えるのみに留まらず、実際に女紅場を設立し運営したことより、行動力、実践力のある人物であったと評価できる。

梅津教知のもうひとつの邸宅(東二番丁42番地)跡には、明治28年(1895年)仙台女子実業学校が設けられ、その後、明治30年(1897年)、同地に仙台市高等女学校(現:宮城県宮城第一高等学校)として開校した。

墓所は東昌寺(宮城県仙台市青葉区青葉町八番一号、臨済宗)にある。同墓内には、義弟であり札幌神社の権宮司を務めた小幡虎信(弘化4年(1847年)生 - 明治8年(1875年)没、権大講義)の墓もある。

注釈

1.教導活動

遠藤潤(國學院大學神道文化学部教授)は、明治初期の北海道における教導活動と札幌神社について調査研究し,梅津教知の提出した「北海道教法見込」について次のように示している。「北海道教法見込」は、北海道での「教導」の予定・希望(見込み)を提案するもので、三条により構成され,その概略は、以下の通り[5]

第一条 当分、札幌神社社務局を宮城県の設置する中教院出張所として、官員一名を出張させて北海道を総括させ、十一か国のうち便宜のよい地に小教院を設ける。規則はおおよそ中教院に準じ、実際の運用については開拓使と協議し、風土と人情に対応して処する。

第二条 本来中教院で奉斎すべきである「皇祖大神」、天神地祇、歴代の皇霊は暫定的に札幌神社に分祀する。札幌神社は北海道で唯一の官幣社につき、この社を当分、北海道総鎮守とする。札幌神社遙拝所を普及させる。産土神社がある地域は、その区域を確定して氏子を定め、産土神社がない地域は、小教院の敷地内に清浄な地を選び、注連縄をかけて札幌神社遙拝所とする。なお、氏子調と守札配布を優先し、神社造営はあとにする。

第三条 国幣官幣の小社の例に関わらず、札幌神社の官員は大社の官員に準じて増員することを求める。

ここに、札幌神社を場とした教導活動は、小規模ながら開始され、明治6年10月18日付開拓使宛に札幌神社権宮司 小幡虎信が「布教開講」の届け出をした上で、11月6日に最初の「演教」を札幌神社宮司 菊池重賢が行い、同月21日には菊池および小幡がこれを行った[6]。この時期の説教について菊池と小幡は開拓使に宛てた願書で「当地布教之儀、去る十月以降開講、毎回聴人増加、地方官之聞情宜敷勤続罷在候」と述べている。

2.女教考案

秋元信英(國學院大學北海道短期大学部教授)は、井上頼囶の蔵書「神習文庫」(無窮会専門図書館)に所収されている梅津教知著「女教考案」、「神拝祝詞」を丹念に調査研究し紹介している。

梅津教知の書「女教考案」の要旨は、以下である[7]

三条の教則を根幹とした教導職の活動には、我が国に特有な女性のための教育が必要である。従来、女性に対しては、容姿、芸能、才子の三要素が批評の基準であったが、その程度であってはならない。旧来を一洗して「皇国ノ光曜ヲ益す事」が必要になる。その為の要素は、次に述べる三部から成立する。

第一は制度である。学制とは違う、女子を対象とした女教院の開設を提案する。第二に女教院における学業と職業の訓練であり、その内容は、1)読書(三条の教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守))、2)習字、数学、3)歌、和文、立花、茶湯、4)養蚕、縫針、糸機、染、洗濯、5)容儀、礼式、6)説教、講釈、輪読、歌文会式、質問である。第三は教導職である。女教院における教育の人的荷担者を構成するは、教師(女性の教導職)、助教、講社とする。

「女教考案」原文は、『北海道神宮研究論叢』秋元信英 2014, pp. 360–363に記載されている。

3.神拝祝詞

梅津教知の著わした「神拝祝詞」は、大教宣布に従事した神官の祝詞ないし拝詞の作文と捉えることができる。作文に使用した典拠や事情の類は、梅津が平田派であることを考慮し、文政12年版の平田篤胤「改正再板毎朝神拝詞紀」(後刻版)および「玉襷」が下敷であったと、秋元信英は推察している[8]。拝詞であっても、神社を遙拝するのを予想しておらず、方位が指定されてない。この拝詞は大教宣布が根幹にあり、特定の神社の祭神を拝さず、広く神々を敬い神徳を称えている。延喜祝詞式から麗しい慣用的な形容詞を簡抜し組み合わせて連ねられている。梅津教知は、「先代旧事本紀」の「天神本紀」にみえる天孫降臨の物語や神宝の霊力をめぐる知見を有しており、この「神拝祝詞」からは、平田派に特有な天地未生や大国主神の神徳をめぐる思想がうかがえる[9]

「神拝祝詞」原文は、『北海道神宮研究論叢』秋元信英 2014, pp. 376–380に記載されている。

4.女教院

小平美香(学習院大学講師)は、明治初期の政府による国民教化政策と女性教導職の関わりを研究し、著している。小平の発表した論文[10]に神道系教育機関である女教院における奥山照子、梅津教知の関与が記されている。以下にその抽出した事項を記す。

明治6年6月17日、女教院が開講され、6月25日、教部省の依頼により、東京の姉小路家を仮の宿として女教院が開校されたことが、教導職の「権訓導」に任じられた跡見花蹊の日記[11]より窺い知れる。日記には、7月22日、女教院の教師達が「女教師請待」として東京の神田大和町で説教を依頼され、姉小路公前の娘かつ姉小路公知の妹である姉小路良子(1856~1926)が神前で祝詞をあげ、その後、女教師二名:奥山照子・平田長子が説教を行ったとある。

このとき、奥山照子は、教導職十三級の「訓導」であった。照子の教院での講義は、「教院講録第五号」「御教則第一条ノ旨ヲ演説ニ及ビマスル」[12]に収録されており、それによれば大教院が有志の婦人を登用し、「男女ノ別ヲ正フシテ女教ヲ宣布ナサシメ給フ事、是教法ノ正シキ大体ニテ、婦女子ト雖度外ニ置カズ、万民一体ニ人道ヲ知ラシメ給フ難有イ御主意デゴザル。」とあり、婦女子であっても、万民一体として度外視されてないことがありがたいと述べている。

平田長子は教部省に許可を得て刊行した教義書のひとつ「明教事実」(明治7年)[13]の著者の一人であると考えられており、その巻末には、本書刊行が梅津教知大講義の勧めによるものとある。

5.仙臺女紅場の設置

仙臺女紅場については、植村千枝(宮城教育大学助教授)、知野愛(郡山女子大学短期大学部教授)の調査研究がある。植村千枝は,次のように発表している[14]

女紅(じょこう)とは中国から伝えられた言葉で、日本にも古くから用いられ、婦巧、女工ともいわれ女の手仕事一般を指していた。近代女子教育について研究した坂本清泉、智恵子は、女紅の教育を「うみ紡ぎ、機織、裁ち縫い、濯ぎ洗いの衣料、衣類の全生産過程にかかわる教育」と定義している[15]。私立仙臺女紅場は、それら衣類にかかわる技能を含んだ、殖産興業政策を受けての勧業的な要素が強い教育現場であった。

仙臺女紅場は、明治12年(1879年)1月9日に設立され[16]、梅津教知の実弟の梅津貞範の名前で、宮城県令松平正直宛に開業届が提出されている。その開業届の規則の第一条に「当場ハ私立タリト雖モ是ヲ統轄スルニ公宮應ノ保護ヲ仰ガザルヲ得ズ、依テ其事業百般官許ヲ請テ施行ス」とある。場所は仙台区柳町通り15番地勧業場内官舎と、東二番丁76番地の梅津教知邸内であった。前者は、官舎であることから場所の提供を受けて始められたと考えられる。第三条「縫織志願ノ女子期限ヲ定テ入場ヲ許シ満期退場ノ者ヘハ褒賞ヲ与フベシ」、第五条「始テ入場ノ者タリ共、就業ノ日ヨリ工品物ヲ算勘シ例月十ノ日ヲ以テ賃金ヲ渡スベシ」、第六条「月謝及授業料ヲ要セズ」とあり、教育と製品生産を両立させていた。この勧業女紅場制度は、当時の士族授産の流れをくむものであり、届出時期にはここで仕事に従事した者は「・・・現今生徒百七拾八名」と報告していることから、学びながら即賃金が支払われるこの女紅場制度は、禄を離れ零落した士族の娘達や、あおりを受けて収入減となった町方の娘達にとって、人気のある仕事場兼教場であったと考えられる。

6.仙臺女紅場の教育内容および教師

知野愛(郡山女子大学短期大学部教授)は、明治初期にあった女教院および仙臺女紅場について詳しく調査研究し、論文[17]を著している。その論文により明らかにされた事項を,以降の節(6.~10.)に記す。

青年対象である中教院(明治6年頃設立)に対し、女子を対象としたのが女教院であった。仙臺の女教院は、「梅津夫妻の居宅であり、「機業場」で働く子女たちが、夜間や余暇に「女紅場」としての教育を受けたのではないだろうか[18]」と考えられている。この女教院は、女紅場設立後も存在し続けたと考えられ、知野は、教導職の奥山照子が両方の教導を務めたであろうと考察している。

奥羽日日新聞(明治16年7月3日付)の「女生徒大試験」という見出しの記事に「當(仙臺)区東二番町女教院にて女生徒は大試験あり当日午後一時迄に生徒及び来観人とも打揃ひ二時に神前に於て奥山照子祝詞を奏し第一献供の式ありて女生徒にハ皆紫色の袴を着し礼儀正しく榊其他鮮魚神酒種々の物を捧げ」た。続いて、習字、裁縫の試験、和歌を詠じ、大和舞を演じたという。記事には和歌11題が掲載され、「生徒の行儀正しさと且技芸に熟したるは感服」したとある。

女教院の基になっている中教院の規則に「管内の教導職にはその説教所を定めさせ、一ヶ月三度以上適宜に教導を行はしめた」[19] とあることから、仙臺女紅場の教師5名のなかの管理職的立場にあった奥野照子は、月に3回程度、生徒達に教導を行ったと考えられる。

知野は、「宮城縣統計書」明治18年(1885年)[20]より、仙臺女紅場の明治14~18年の教師数、生徒数を抽出整理している。それによれば、明治14年(1881年)は、教師5名、生徒85名であった。

明治16年(1883年)3月、「私立」の文字が取れ「仙臺女工場」の設置願い[14]が、梅津貞範より宮城縣令松平正直宛に提出され、再出発している。それによると設置目的を「初等学校卒業、女子ニ裁縫、機織ノ貳業ヲ授ク」となっていて、はじめて最低年齢制限が引かれている。初等科は3年であるから、10才からの入学が認められている。なお、「文部省第11年報」(明治16年)には、「女紅場ハ専ラ機業ヲ旨トシ最平易ナル習字算術等ヲ授ケテ実業ニ就カシムルヲ目的トシ」[21]とあり、機業・機織りを主として教えるものの、その他に日常的な平易な習字や算術も教え、実業に就かせることを目的としていたことより、実際には裁縫機織りの他に簡単な書道、算数を教えていた。

明治16年(1883年)当時の仙台における教育状況は、「文部省第11年報」(明治16年)によれば、まだ高等女学校はなく、女子を対象とするものは、松操私塾(しょうそうしじゅく)、梅津貞範の女紅場、明治16年に開学したばかりの彤管私塾(とうかんしじゅく)の3校であった。全国的には、女紅場が登場するのは、明治7年(1874年)の京都府におけるものが最も早く、その後、大阪、堺、奈良、高知、姫路、新潟、福岡、長崎、三重と続き、仙臺女紅場は、女紅場形成期の終盤に登場したものであった。

「設置願」(明治16年)には、教員として「奥山照子37歳」「月棒金3円」との記載があり、奥山照子の履歴書が添付されている。そこには「裁縫機織亡母奥山牧子ヨリ伝習、明治6年教導職十三級試補、同年六月十五日訓導、明治八年権少講義、明治十年権中講義」とある。照子は、中講義であった[22]

奥山照子は「伊達郡桑折の検断の家に生まれ、仙臺の神職梅津教知の妻となった。(略)夫婦相携えて地方を巡り神道の講演を行い、また照子は仙臺の神道本部で古今和歌集の講義を行うなど当時のインテリ婦人として名高く、紫色の袴を穿いたのは照子が初めであった」という[23]。 また、照子が和歌や書道をたしなんだことも記されている。仙臺女紅場の教師は、教導職である奥山照子、裁縫教師に白極柳(りやう)、加佐間たみ、山本世柳、書道教師に白石皆瀬(みなせ)により構成されていた[24]

7.仙臺女紅場の財政

女紅場の運営を支えるものとして、裁縫料(例:上等直衣40銭、絹地袷袴25銭)や、機業収入があった。「梅津機業場(東二番丁)」という工場が「宮城縣統計書」(明治17年(1884年)、18年(1885年))に記されており、地図に示された位置から推察するに、梅津教知の機業場と考えられる。「宮城縣統計書」には、明治14年(1881年)から明治18年(1885年)の梅津機業場の製品製出高、代価が示されており、最も多かった年は明治17年(1884年)で、製出高4000反、価格にして4800円であった。

明治16年(1883年)の「設立願」に、明治15年の収支報告が記されている。それによると、収入は授業料による36円、支出は教師給料、役員給料、器械費等により326円。その差額の赤字290円は機織利潤を充当したという。この機織利潤とは、梅津機業場の利潤と考えられる。「宮城県統計書」に、明治17年の工場の項に「梅津機業場」(仙台区東二番丁、職工延人数38人)の記載が見られる。この職工38人とは、女紅場の生徒72名の内の機業科の生徒数に相当するのではないかと知野は述べている。

8.仙臺女紅場の学科

明治16年(1883年)の「設置願」に学科内容が記されており、その内容は植村の論文[14]に詳しく、知野は概要を記している[17]

機織科は、下等が糸操、白木綿および縞木綿織、中等は小倉および絹類ノ織、上等は延下拵一宇とあり、始めは糸操りから木綿織、絹類の織と徐々に難しくなっていく。

裁縫科は、級別に定められており、10級の素縫い、直線縫いから始まり、9級では衣服名称を覚え、小児帯を製作するなど、進度は緩やかで、実生活に即役立ちそうな製品作りが特徴である。渡辺辰五郎とともに明治時代の裁縫教育の二大先覚者とされる[25]朴沢三代治(ほうざわみよじ)に教えを受けた奥山照子が裁縫教師であったことから、朴沢の教授法の影響を受けていたと考えられる。朴沢は「大勢の女子を一堂に集め、実物にすぐとりかかることをしないで、模型や雛形を用いて一斉に教えることをした」[14]という。製作品を見ると、装飾品などはなく、生活に密着しているきわめて実用的な内容になっている。実業に就かせることを目的としていたことを示す内容である。

9.仙臺女紅場の生徒

「仙臺區美人揃」[24]掲載者数は女子140名、全員の住所と氏名・年齢が、番付表に見立て東西に分けて記載されている。女子140名は、仙臺女紅場における機業科・裁縫科の両方の生徒であると考えられる。この発行目的は、各自氏名の上にあえて「美人」と書かれている点や、端書きに「お嫁様ご吟味の御方ハ是より御見立然るべく候」とあり、欄外に「礼儀正しき真の生むすめ」と書かれている点から、各自の縁談のためと女紅場の宣伝を兼ねて作成されたものと考えられる。

生徒の年齢は、7歳から16歳までと幅広く、16歳が37人と最も多く、全体の26%を占めている。生徒の住所は、ほとんど全員が仙台区居住である。

明治16年(1883年)5月3日付の奥羽日日新聞に、仙臺女紅場より初めて7名の卒業生が輩出したことを示す、卒業生4名の氏名に続いて「右四名今般当場ニ於テ裁縫高等科卒業候ニ付此段廣告ス 四月仙臺女紅場事務局」の広告が掲載されている。

卒業生のひとりの、女教院にて奥山照子から読書、算術、習字、裁縫を学んだという菊田(祇園寺)きくは、明治14年(1881年)、古川で祇園寺私塾を開いている[26]

10.仙臺女紅場の終焉

文部省年報における女紅場に関する記述は、明治18年(1885年)の第13年報までは見られるが、明治19年(1886年)の第14年報では、宮城県を含む各県とも全く見られなくなる。これは、明治18年の教育令改正で女紅場に関する規定にも大きな変化があったためではないかと考えられる。

仙臺女紅場は明治19年にも存在していることは、明治19年「宮城県統計書」から確認できる。「県立諸学校書籍館及公立幼稚園私立各種学校」の収入支出の項には仙臺女紅場の記載がある。

やがて明治21年(1888年)になると「宮城県統計書」では、教育機関や工場の欄に「女紅場」や「梅津機業場」の文字は見られなくなる。終わりを迎えたか、もしくは別形態に転換したものと考えられる。

奥山照子は、夫 教知の死後、実践女子学園を創立した下田歌子(1854~1936)が、ときの皇太子及び内親王御養育主任の佐々木高行より命じられ、明治26年(1893年)9月から28年(1895年)8月まで欧米に教育視察したとき、下田の執事を務め、洋行留守宅日誌[27]を著わしている。

11.奥山照子の氏姓

 奥山照子が、配偶者梅津教知と同姓でないのは、知野愛(郡山女子大学短期大学部教授)著「明治初年の女子勧業教育(2)―仙台女紅場を中心に―」註22の以下の解説が参考になる。

明治8年太政官第22号布告で「自今必苗字相唱可申ウベク・・・新タニ苗字ヲ設ケ・・」とあり、各人は必ず氏を称すべきものとされたが、明治9年太政官指令では、「婦女人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユベキ事」とされた[28]。明治31年明治民法で明治戸籍法が制定され「妻ハ夫の家ニ入ル」となるまでは、必ずしも結婚して夫の氏に統一するとは限らなかった。

梅津教知の著書

  • 公余秘抄
  • 恐惶録(きょうこうろく) 明治3年(1870年)

系譜

  • 父:梅津教篤(仙臺藩士、文化13年(1816年)生-慶應3年(1867年)3月6日(旧暦)没、享年52才。先妻:吉田九左ェ門景治妹、後妻:利世(櫻田勘左エ門保貴三女)。)
    • 教知は長男。母は吉田九左ェ門景治妹。
    • 異母弟:梅津順助篤信(次男、弘化4年(1847年)生-元治元年(1864年)9月8日没、享年18才。母は利世。)
    • 異母弟:梅津貞範(三男、幼名:貞助、安政2年(1855年)生-没年不詳。母は利世。村田家養子となる。)
    • 梅津貞範
      梅津敬治
      異母弟:梅津敬治(四男、幼名:福四郎、四郎、篤四郎、安政4年(1857年)4月17日生-明治41年(1908年)5月27日没、享年52才、正七位、勲四等、功五級、陸軍歩兵大尉。母は利世。)
    • 梅津敬治とその妻:加寸(かす)との子供に、6男2女(庸(長男)、重雄(次男)、義雄(三男)、定雄(四男)、鎭雄(五男)、英雄(六男)、たけこ(長女)、文子(次女)がいる。
    • 教知の妻:奥山照子(弘化4年(1847年生)-没年不詳) - 奥山正胤・奥山牧子夫妻の女。教知没後、東京に出て北白川宮に仕える[14]

脚注

  1. ^ 北海道神宮『北海道神宮史』下巻、1995年9月1日、687頁。 
  2. ^ 開拓使函館支庁庶務課『院省府県往復文移録』 42件目に「梅津教知札幌神社宮司兼大講義申付ノ件」の記載あり、1873年3月4日。 
  3. ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、349頁。 
  4. ^ 北海道神宮『北海道神宮史』下巻、1995年9月1日、665頁。 
  5. ^ 遠藤潤『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、119頁。 
  6. ^ 遠藤潤『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、122頁。 
  7. ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、355頁。 
  8. ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、375頁。 
  9. ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、375頁。 
  10. ^ 小平美香『国民教化政策と女教院-復古と開化をめぐって-』 人文10号、学習院大学人文科学研究所、2011年3月28日、179-198頁。 
  11. ^ 花蹊日記編集委員会『跡見花蹊日記』 第一巻、2005年。 
  12. ^ 三宅守常編『三条教則衍義書資料集』 下巻、明治聖徳記念学会、2007年。 
  13. ^ 平田長子、久保悳隣、久保季玆『明教事実』 上下巻、1874年。 
  14. ^ a b c d e 植村千枝『家庭科教育における技能・技術(3)宮城県を中心にした裁縫教育成立の背景』宮城教育大学紀要 第21巻 第2分冊 自然科学・教育科学、1986年、63-82頁。 
  15. ^ 坂本清泉、智恵子『近代女子教育の成立と女紅場』 あゆみ教育学叢書10、あゆみ出版、1983年6月。 
  16. ^ 『県庁文書』学事(明治12年度、学務綴「県令宛工業学校等取調照会の文部大書記官文書並びに文部省宛本県廻付資料」)、宮城県図書館蔵。 
  17. ^ a b 知野愛『明治初年の女子勧業教育(2)仙台女紅場を中心に』郡山女子大学紀要第35集、1999年3月、169-187頁。 
  18. ^ 『宮城県教育百年史』 第一巻明治編、ぎょうせい、1976年、776頁。 
  19. ^ 宮城県神社庁『宮城県神社庁誌』宮城県図書館蔵、1960年、25頁。 
  20. ^ 宮城県統計書『明治年間府県統計書集成明治11~18年』宮城県立図書館蔵マイクロフィルム所収。 
  21. ^ 『文部省第11年報』1883年(明治16年)、384頁。 
  22. ^ 宮城県神社庁『宮城県神社庁誌』宮城県図書館蔵、1960年、88頁。 
  23. ^ 宮城縣史刊行会『宮城縣史29』1986年、296頁。 
  24. ^ a b 仙臺區木村東助一枚刷『仙臺區美人揃』刊行記載なし,木版刷一枚(48.5cm×32.0cm)、仙台市博物館・三原コレクション、No.1588。 
  25. ^ 常見育男『家庭科教育史 増補版』光生館、1972年、152頁。 
  26. ^ 『宮城県教育百年史』 第一巻明治編、ぎょうせい、1976年、666頁。 
  27. ^ 奥山照子『洋行留守宅日誌(明治26年9月~12月31日)』実践女子大学図書館蔵、1893年12月。 
  28. ^ 外岡茂十郎『親族法(一)』敬文堂、1968年、43頁。 

参考文献

  • 『北海道神宮研究論叢』北海道神宮・國學院大學研究開発推進センター編、弘文堂、2014年10月5日。 
    • 遠藤潤「明治初期の北海道開拓と札幌神社の創建・展開」『北海道神宮研究論叢』、103-130頁。 
    • 秋元信英「【特論】明治六年、札幌神社初代宮司梅津教知の布教二題」『北海道神宮研究論叢』、347-392頁。 
  • 梅津教知「女教考案」『神習文庫』、無窮会専門図書館、1873年4月17日
  • 梅津教知「神拝祝詞」『神習文庫』、無窮会専門図書館、1873年5月18日
  • 奥山照子「桃夭(とうよう)義塾生徒名簿」、1893年9月18日、実践女子大学図書館
  • 植村千枝「家庭科教育における技能・技術(3)宮城県を中心にした裁縫教育成立の背景」『宮城教育大学紀要第21巻第2分冊自然科学・教育科学』1986年、63-82頁
  • 知野愛「明治初年の女子勧業教育(2)仙台女紅場を中心に」『郡山女子大学紀要第35集』1999年3月、169-187頁
  • 知野愛「女紅場における勧業・裁縫教育:仙台女紅場を中心に」『日本家政学会第51回大会研究発表要旨集』1999年5月28日、264頁。 
  • 小平美香「国民教化政策と女教院、復古と開化をめぐって」学習院大学人文科学研究所『人文10号』、198-179頁、2012年3月28日。
  • 『北海道神宮史』下巻、北海道神宮、1995年9月1日。 



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