吉田二郎 (登山家)
(松山荘二 から転送)
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吉田 二郎(よしだ じろう、1931年ころ - 2003年3月13日[1][2])は、日本の登山家、後には松山荘二と名を変え、おもに雑誌記者として活動した。
鹿島槍北壁と執筆
第二次世界大戦後、『岳人』や『山と渓谷』に記事を執筆したことで知られた。1957年に、自らの鹿島槍ヶ岳の北壁初登攀記録などを含めて、鹿島槍の登攀記録をまとめた『鹿島槍研究』を出版した[3]。
1958年に第2次RCCが結成された際には、藤木三郎、奥山章とともに会の中心となった[要検証 ]。
疑惑
しかし、吉田が主張したルートのうち8件について疑義があるという見解が、所属していた山岳会「登嶺会」から出され『岳人』に掲載された。吉田はこれに応じた反論を出したものの、その後は山岳界から姿を消してしまった。
松山荘二
山岳界から身を引いた吉田は、松山荘二の名で雑誌記者として生活した。松山の実家は古書店であり、松山自身も一時は古書店経営を試みたが、これはすぐに頓挫した。実家の古書店「したよし」は、父である3代目の当主が1991年に死去し、松山はこれを継がずに店を閉じた。
2003年3月13日、心臓の持病のため死去[1]。
おもな著書
- 鹿島槍研究、朋文堂、1957年
- 岩と雪の王国、二玄社、1959年
松山荘二 名義
脚注
外部リンク
- Koizumi (2013年2月25日). “平成25年2月例会(第592回)講話”. 2018年1月17日閲覧。 - JAC三水会
- 高田直樹 (2017年1月28日). “本多勝一氏と吉田二郎氏と”. 高田直樹. 2018年1月17日閲覧。
- “幻の書『鹿島槍研究』が書棚にやってきた”. 風花爺さんの二住生活 (2016年8月8日). 2018年1月17日閲覧。 - 個人ブログ
松山荘二
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「吉田二郎 (登山家)」の記事における「松山荘二」の解説
山岳界から身を引いた吉田は、松山荘二の名で雑誌記者として生活した。松山の実家は古書店であり、松山自身も一時は古書店経営を試みたが、これはすぐに頓挫した。実家の古書店「したよし」は、父である3代目の当主が1991年に死去し、松山はこれを継がずに店を閉じた。
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