松山荘二とは? わかりやすく解説

吉田二郎 (登山家)

(松山荘二 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 08:56 UTC 版)

吉田 二郎(よしだ じろう、1931年ころ - 2003年3月13日[1][2])は、日本登山家、後には松山荘二と名を変え、おもに雑誌記者として活動した。

鹿島槍北壁と執筆

第二次世界大戦後、『岳人』や『山と渓谷』に記事を執筆したことで知られた。1957年に、自らの鹿島槍ヶ岳の北壁初登攀記録などを含めて、鹿島槍の登攀記録をまとめた『鹿島槍研究』を出版した[3]

1958年第2次RCCが結成された際には、藤木三郎、奥山章とともに会の中心となった[要検証]

続けて1959年には『岩と雪の王国』を出版した[4]

疑惑

しかし、吉田が主張したルートのうち8件について疑義があるという見解が、所属していた山岳会「登嶺会」から出され『岳人』に掲載された。吉田はこれに応じた反論を出したものの、その後は山岳界から姿を消してしまった。

松山荘二

山岳界から身を引いた吉田は、松山荘二の名で雑誌記者として生活した。松山の実家は古書店であり、松山自身も一時は古書店経営を試みたが、これはすぐに頓挫した。実家の古書店「したよし」は、父である3代目の当主が1991年に死去し、松山はこれを継がずに店を閉じた。

2003年3月13日、心臓の持病のため死去[1]

おもな著書

  • 鹿島槍研究、朋文堂、1957年
  • 岩と雪の王国、二玄社、1959年

松山荘二 名義

  • 炎の薔薇、青樹社、1968年
  • 日本ミイラの旅 (紀行シリーズ)、朝日ソノラマ、1975年
  • デンマークのパイプ、青英舎、1983年
  • 古書肆「したよし」の記、平凡社、2003年

脚注

  1. ^ a b 『現代物故者事典2003~2005』(日外アソシエーツ、2006年)p.568
  2. ^ 死去時に「享年72歳」と表現されている。
  3. ^ 鹿島槍研究”. 国立国会図書館. 2018年1月17日閲覧。
  4. ^ 岩と雪の王国”. 国立国会図書館. 2018年1月17日閲覧。

外部リンク


松山荘二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/27 21:02 UTC 版)

吉田二郎 (登山家)」の記事における「松山荘二」の解説

山岳界から身を引いた吉田は、松山荘二の名で雑誌記者として生活した松山実家古書店であり、松山自身一時古書店経営試みたが、これはすぐに頓挫した実家古書店「したよし」は、父である3代目当主1991年死去し松山はこれを継がずに店を閉じた

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