東伏見家 (伯爵家)とは? わかりやすく解説

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東伏見家 (伯爵家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 06:25 UTC 版)

東伏見家
家祖 東伏見邦英
久邇宮邦彦王の第3王子)
種別 華族伯爵
出身地 山城国京都
主な根拠地 東京都
京都府京都市
凡例 / Category:日本の氏族

東伏見家(ひがしふしみけ)は、東伏見宮依仁親王一代で絶えた東伏見宮家の祭祀を継承するために久邇宮邦彦王第3王子邦英王(東伏見慈洽)が臣籍降下して創設した華族伯爵[1]

歴史

昭和12年に東伏見邦英伯爵により建設された東伏見伯爵家の横浜別邸(神奈川県横浜市磯子区)。緩やかな傾斜の屋根と庇が幾重にも重なり、窓には木製の欄干が付され、屋根上に水煙と九輪を乗せたこの建物は、仏殿にも楼閣にも見える和風御殿ともいうべき外観だが、内部は完全な洋風であり、外観の派手さと対照的にシンプルなアール・デコ調の内装。光沢を放つ大理石が多用される[2]

慶応3年(1867年)に伏見宮邦家親王の第17王子として生まれた依仁親王は、幼くして長兄山階宮晃親王の養子となったが、明治6年(1873年)に晃親王に実子菊麿王が誕生したことで、依仁親王は山階宮家を離別することになり、ついで兄小松宮彰仁親王の後嗣となったが、晩年に彰仁親王が依仁親王を後嗣とするのを取りやめたため、小松宮家とも離別。結局依仁親王は別に東伏見宮家を興すことになった。この宮号は小松宮に改称する前に依仁親王が一時期称していたものだった[3]

東伏見宮依仁親王は大正11年(1922年)に薨去。依仁親王には周子妃との間に子供がなかったため、東伏見宮家は一代で絶家したが、依仁親王は生前東伏見宮家断絶後に備えて久邇宮邦彦王の第3王子邦英王(明治43年5月16日生。平成26年1月1日没[4]。邦彦王は香淳皇后の父であり、つまり邦英王は香淳皇后の実弟)を9歳の頃から養育していた[5]

邦英王は東伏見宮家の祭祀を継承するため、昭和6年4月に臣籍降下して東伏見の家名を賜り、華族の伯爵位を与えられた。夫人は亀井茲常伯爵の次女保子(大正7年5月12日生、平成21年9月29日没)[1]。後に邦英は天台宗青蓮門主となり、東伏見慈洽と称した。その後、次男の慈晃(守俶。昭和17年6月21日生)が門主を継いでいる[6]

慈洽の長男は韶俶(昭和15年10月10日生)、その夫人は田島一男の娘禮子(昭和19年1月14日生)。夫妻の間の子に幸子(昭和44年7月10日生)と百百子(昭和49年8月6日生)の姉妹がある[1]

系図

系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠[1]
久邇宮邦彦王
 
 
 
東伏見慈洽
(邦英王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
韶俶邦子慈晃容俶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幸子百百子

脚注

出典

参考文献




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