月次・連句高点集監修時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 23:30 UTC 版)
「立羽不角」の記事における「月次・連句高点集監修時代」の解説
宝永頃には不角の高点付興行に句が集まらないようになった。代わって連句集や俳諧撰集を手懸けて自派の勢力の存続を図るとともに、自派を『籰纑輪前集』序巻で「温故知新流」と標榜し、『つげのまくら』において対抗勢力宝井其角一派の洒落風を批判するなど、自派の正当性の主張に重きを置くようになった。本書は同年談林派浮生『滑稽弁惑原俳論』によって批判を受け、宝永6年(1709年)松丁子『一言俳談』では「頭は猿の化鳥風」と揶揄されるなど、他派と激しく応酬した。享保初年にも『正風集』を編じて自らの「正風」を主張し、享保5年(1720年)蟠竜『俳諧とんと』によって批判されている。 正徳5年(1715年)には兄弟子岸本調和を亡くし、自派を一人で負って立つこととなった。享保4年(1719年)2月14日、大火により自家版の版木を焼失した。
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