月次・歳旦集監修時代
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享保後年には専ら歳旦集を手がけるようになる。享保12年(1727年)『享保十二丁未歳旦』では、門弟数千人に及んだとして、千翁と号した。 享保15年(1730年)5月15日京に向け出発、中仙道を通り6月3日到着、28日法眼の位を賜った。この旅は『木曽の麻衣』『有磯海』に纏められた。 享保末年からは息子等も独立し、自ら句集を出して、不角派の普及に務めた。 宝暦3年(1753年)5月、体調を崩した。6月20日死を覚悟、翌日午刻死去した。辞世は「空蝉はもとの裸に戻りけり」他。築地本願寺内成勝寺に葬られた。現在の墓所は江戸川区東小岩万福寺。
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