曽根崎川の埋立と東西幹線道路の開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 00:13 UTC 版)
「北の大火」の記事における「曽根崎川の埋立と東西幹線道路の開設」の解説
大火のあと、曾根崎心中で知られる曽根崎川(別名、蜆川)の一部は大火で生じた瓦礫を使って埋め立てられた。その後の大正後期には下流部も埋め立てられ曽根崎川は消滅し、今日では桜橋などの地名として残されており、1976年(昭和51年)に曽根崎川跡の碑が大阪市によって北新地のほぼ中央に建立された。 今回の大火は北大阪一帯を東から西にかけて延焼したため、ここに東西方向の幹線道路が新設されることになった。この道路は後に西は神戸市まで、東は京都市まで延長されることとなり、新設当初は予想されることのなかった大阪で最も重要な幹線道路となり、それまで高麗橋東橋詰めにあった大阪の道路原標は新設された東西方向の幹線道路と梅田新道の交点に移設され、この場所が今日の国道1号の終点、同時に国道2号の起点になった。 また北の大火で焼失した堂島浜通二丁目の市立大阪高等商業学校跡地には、1912年(明治45年)に大阪市庁舎が建てられた。この堂島の大阪市庁舎は1921年(大正10年)に中之島の現在地に庁舎が移転するまで使用された。
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