旧制早稲田高等予科時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:58 UTC 版)
1918年、早稲田大学高等予科英文学科入学。ホイットマン詩集「草の葉」は、その解読・暗誦に没頭した。当時は頻繁に芸術座通いをし、ツルゲーネフ、トルストイ、メリメなどを観劇したほか、浅草日本館でオペラ鑑賞もした。当時、「早稲田騒動」の影響で、本田は学業に対しさほど熱心ではなかったが、早稲田文学社主催の講演会には毎回出席した。 そんな中、第一次大戦による日本の急激なインフレで、父の遺産が底を突きそうになったため、アルバイト先を求めて叔父のもとを訪ねた。叔父は本田が父の後を継いで記者志望であることを知っており、伝を頼って当時の神戸新聞主筆を紹介、本田は主筆の私設助手として採用され、論説の資料収集や執筆補佐をした。本田はあくまでも学費の足しにして早稲田を卒業するためにアルバイトをしたのだが、「書く」ことに魅せられて中退する。
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